上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- / Top↑

4094187030_2  大阿闍梨」(だいあじゃり)、高位の僧の称号だそうで、大がつくのですからそれこそ、雲の上のお坊さん。酒井雄哉氏はこの称号で呼ばれます。氏は比叡山の千日回峰をなんと2度も達成しています。調べれば調べるほど、千日回峰、人間業とは思えません。そしてわたしが最も打たれたのは、氏は当初から僧職を目指したのではなく、若いころは挫折に次ぐ挫折で自殺さえ考えた苦悩の時期をもったことです。人はここまで立ち直り、生き直すことができるのです。

 酒井雄哉氏は1926年(大正15年)、大阪に生まれます。旧制中学卒業後、当時の若者のあこがれであった予科練(海軍飛行予科練習生)に志願します。しかし1945年には終戦、氏は20歳で混乱のちまたに放り出されます。戦後は「予科練くずれ」として排斥されたのです。氏の苦難が始まります。カストリ焼酎の密売、ラーメン屋、小間物屋と仕事を転々とします。店を火事で焼け出され、父が始めた株屋を手伝います。朝鮮戦争特需に乗り、大もうけしました。しかし歴史に残る「スターリン大暴落」で一夜にして株は半値以下。当時のカネで200万円もの負債を負います。債権者から逃げ回る惨めな境遇に落ちました。それからも菓子ブローカーなど怪しげな商売に手を出します。見かねた周囲が進めた妻と32歳で結婚します。だがこれが氏に終生大きな悔いを残すことになります。新婚2ヶ月で妻は自殺したのです。氏は悔いと自責にのたうち回ります。俺の生き様に妻は我慢ができなかったのだ、俺が殺したのだ。ほうけて、ただただ妻の霊前に涙を流す日々が続きました。真剣に死ぬことを考えました。

 生きながら死んでいたような氏に大きな回心が訪れます。心配した叔母が氏を比叡山に誘います。神も仏も嫌悪していた氏は比叡山に登り不思議な感慨に打たれます。若くして死んだ戦友、何も語らず逝った新妻、氏はおのれの過去と否応なく向き合います。それから憑かれたように叡山通いが始まります。山に登ればおのれの無惨な過去を少しでも受け入れられるような気がしました。通うこと5年、氏はついに出家を決意します。39歳、人生の半ばに達していました。

 千日回峰、テレビでも紹介されましたのでご承知と思いますが、いやはや、すさまじいです。最近も若い僧が達成しマスコミで紹介されました。もちろん修行者にとり宗教的意義が最も大きなことだと思います。このような荒行を達成するには宗教的信念が何より必要なことなのだと思います。不遜なことは十分承知しておりますが、至って不信心のわたしはできるだけ人間の心身の限界を極めるということで見ていきたいと思います。千日回峰は百日を一期として7年で満行です。死に装束である白装束に、首つり用のひもを肩にかけ、自害用の短刀を腰に、徹底した不退転の行です。行に踏み出した限り、自らの病でも親の死であろうと中断は許されません。中断は死を意味します。実際長い歴史の中で中断し死を選んだ僧の塚が山中に点在します。毎夜毎夜、暗い比叡山を40キロも歩き抜きます。朝、堂に帰ると穀物だけの食事、勤めを果たし午後9時に寝て、午前0時過ぎには行に出立します。粗食とこの睡眠時間、驚異です。氏の言われるように「一日が一生」、一日一日を懸命に生きました。

 700日の行が終わると最大の荒行「堂入り」です。足かけ9日間、不眠不休、水も飲まない断食の中、一心に経を唱えるのです。5日目にうがいと肘掛けが許されるだけです。氏は述べています。「4日目ころから死臭がしてきた。点々と死斑も表れた。…お経を唱えるのに一心不乱で睡魔の入る余地はない。感覚は異様に冴えわたってくる。線香の灰の落ちる音さえはっきり聞こえた」。本当に信じられません。常人には絶対不可能なことです。人間の驚異的な潜在力、そしてやはり信仰なしでは達成できないのだろうと、その不可思議な力に打たれます。千日の残り300日は利他行として、衆生救済のため京の町に降り、驚くべきことに毎日60キロ以上を歩き通します。酒井氏はなんと千日回峰を二度も達成します。二度目の達成時は60歳を迎えこれは史上最高齢です。また比叡山の千年を超える歴史でも二度の達成者は氏を入れ3人だけでした。

 大悪は大善に通ずと言います。無惨な青春でした。死を覚悟して国に尽くそうとした思いは粉々に打ち砕かれます。戦後の混乱期はほとんどの人にとり修羅でした。修羅に迷う氏は欲望のままに生き、取り返しのつかない過ちを犯します。妻と亡き戦友が重なり、おのれを責めさいなんだと思います。氏にとり夜の比叡を必死に歩き抜くことのみがおのれを許すことのできる唯一の時間であったと思います。宗教的回心には遠くても、少しは山の苦しさを知っているわたしは氏の思いが悲哀とともにわかるような気がします。わたしなどにもちろんできることではありませんが、氏を身近に感じることができます。80歳を超えた氏はこの上ない温顔で今も人の救いを語られています。

★「ただ自然に」  酒井雄哉 寺田みのる画賛集       

Kd000135_2

★「生き仏になった落ちこぼれ」  長尾三郎 著

             ★        ★        ★    

スポンサーサイト
2009.04.16 / Top↑

 2007年の日本人平均寿命は男性―79.19歳、女性―85.99歳と発表されました(厚労省)。男性は世界第2位、女性は23年連続堂々の世界第1位。(いえ、何も言いたいわけではございません(^_^;))。考えたらすごいことです。よく知られているように、日本は戦後飛躍的に平均寿命が伸びました。ぐっとさかのぼり縄文時代、平均寿命は推計なんと14.6歳、弥生時代、古墳時代も大差なく、室町時代でも15.2歳。平均寿命が20歳を超えたのはなんと江戸時代中期以降でした。明治13年にようやく30歳の関門を超え、40歳を超えたのは大正時代に入ってからです。(女子栄養大学出版部『寿命』より)

 ご承知のように、「平均寿命」は生まれたばかりの乳児を含めた平均であり、異常に低い平均寿命は過去、乳幼児の死亡率がいかに高かったかを示しています。多産多死、死亡することは予測の上多くの子を産み、生き永らえた子を育てていたのです。「いのち」にとって過酷な時代が何万年、何十万年と続いてきました。信長が「人生わずか五十年」と謡った50歳に達したのは戦後の1947年のことです。それから半世紀あまりでこれだけ伸びたのです。医学の進歩、栄養状態、保健知識の普及等々によるものであり、これは大げさでなく人類の勝利だと思います。それまでの「いのち」に革命をもたらしたのです。泣くこともなく、名前すら与えられず生まれてまもなく死んでいった数十万年の無数の命、「いのち」とは何かとつくずく思います。

 暗い話はここまでに。平均寿命なんぞしゃらくせえ、平均をはずれたのか超えたのか知りませんが、100の大台けちらかし、ツルカメ真っさお、長寿を誇り堂々とギネスブックに認定されたじぃ様、ばぁ様をご紹介します。

(画像はフリーのものです。クリックで少し拡大します)                 122jcalment2_4 

★ジャンヌ・カルマン(フランス 1875年~1997年)         

 公認の人類史上最高齢者。122年と5ヶ月を生き抜きました。お顔ももはや性別どころか人類を超えたような[E:coldsweats01]。このおばあちゃん、すごいです。フェンシングをなんと85歳から始め、自転車には100歳まで乗ってました。114歳で映画に主演―し、しゅえんです[E:coldsweats02]―117歳までタバコはスパスパ。タバコ一本で何分命が縮まるというケチな計算がありますが、それでいくと禁煙していたら200歳まで生きたのでは[E:coldsweats01]

★泉 重千代 (1865年~1986年) きんさん・ぎんさん                      

120sigechiyo_2 

 120年と8ヶ月。江戸時代生まれです。惜しくも史上最高齢はカルマンさんに譲りましたが、男では今なお史上最高齢。徳之島で生まれ、母の名は「つるかめ」さん、おめでたい限りですが、母は早くになくなります。母の分まで生きられたのでしょう。このおじいちゃん、天然かどうか知りませんがおもしろい。114歳の時、テレビの取材に答えます。「長寿の秘訣はなんですか?」重千代さん「酒と女かのぅ」。「お酒は何を?」重千代さん「黒糖焼酎を薄めて飲むんじゃ」。「女性はどういうタイプを?」重千代さん「やっぱ、年108gkanie1_4

上の女かのぉ」[E:lovely]。一方女性ではきんさんぎんさんの双子が日本中をわかせました。惜しくも2000年前後に107歳、108歳で相次いで亡くなられましたが、特に姉のきんさんの天真爛漫さに笑いをもらいました。ちょうど宮沢りえのヌード写真集が評判になったころです。きんさん曰く「わしゃ、1億積まれても脱がん」。わしも1億積まれても見とうはないですが[E:wink]。珍しくも長生きはすばらしいことを示されたお二人の冥福を。[E:confident]

★本郷かまと(1887年~2003年)                                    116khongou1_2 

 116年と1ヶ月。一時は存命者の世界最高齢を記録しました。重千代さんと同じ徳之島伊仙町生まれ。やはり南国は 命にはいい環境なのでしょうね。お顔はもはやツルカメの域と言ったら怒られるでしょうか[E:smile]。晩年は2日寝て2日起きるの繰り返し、自由気ままな新ライフスタイル、まさに悟りの境地。長生きの秘訣は「くよくよしない」だそうです[E:bleah]。このすてきな笑顔を見たら心から納得します。最後2日寝るつもりがちょっと狂って長くなっただけでしょう。

★「いのち」とは

 かって「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス)という本が世に衝撃を与えました。個々の生命体は単なる遺伝子の乗り物にすぎず、命の目的は遺伝子の伝達であり、遺伝子の自己複製こそが命の本質である、というものです。確かに多くの動物では生殖が終わるとその個体動物の命も終わります。使命を終え従容と命を終える動物に畏敬すらおぼえます。冷厳に見ると、数十万年、乳幼児の大半が死亡したのも、遺伝子から見れば合理的なこと、「強い」子が次に遺伝子を伝えていったのです。

 数十万年かかって、人間の個々の命を尊ぶ時代にようやく人間は進化したのだと思います。遺伝子は知らず、個々の人間には夢があり、喜びがあり、悲哀があり、笑いがあります。遺伝子よ、おごるなかれ。くたばれ、遺伝子。人間が生き続けようと思うなら、それぞれの遺伝子でなく個々の人間の喜びと悲しみを第一義に置く世界でなくて、いかほどの意味があるでしょうか。上記のじぃ様、ばぁ様たちはしなやかに、笑い飛ばして「いのち」を生ききりました。自分が遺伝子の乗り物など夢にも思わず。また知ったところで歯牙にもかけなかったでしょう。心から賞賛します。

★「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス) 

            ★        ★         ★                              

2009.04.13 / Top↑

                                ★   ★   ★                      075jsatuma1_5     

  薩摩治郎八、なんか江戸時代の大泥棒のようで、今ではほとんど無名ですが戦前は世界に名をはせたようです。一家の膨大な資産を一代で蕩尽し最後はスカンピン、それでも満ち足りたいさぎよい生涯でした。

 明治34年(1901年)東京日本橋の木綿で巨万の富を築いた薩摩治兵衛の孫として生まれました。18歳で日本なぞおかしくてとイギリスはオクスフォード大に留学。その時の仕送りが月1万円、今の価値で約7000万、当時のサラリーマン月給30円、戦前に生まれたかった(^_^;)。卒業したら花のパリへ。ここでの散財がいやすごいのなんの

 高級住宅街に大豪邸、特注の純銀クライスラーにはべるは、夫人の伯爵令嬢、千代さん。サロンを作り当代一流の文化人のパトロンとなり惜しみなく援助しました。イサドラ・ダンカン、ジャンコクトー、藤田嗣治、藤原義江等々一流の芸術家が彼の元に集まりました。昔も今も金持ちに人が集まるのは変わらんです(^_^;)

 極めつけは「日本館」の建設。フランス当局の要請に全額出費で答えました。今のカネで約百億。これは日本政府が費用がないと断ったものだそうで、人がいいというか踊らされたと言うべきか。資格はないのに「バロン(男爵)」と呼ばれ、フランスからはレジオンドヌール勲章。爵位も勲章もカネ次第(^_^;)。結局海外で今の価値で約600億円を大散財。

 しかしです。戦争が終わると実家は没落。ここまでは破天荒のドラ息子、ここからが彼の真骨頂です。

 スカンピンになり、58歳で帰国。浅草の踊り子、利子さんに惚れ結婚(30歳も年下です(^_^;)千代夫人はすでに亡くなっていました)、6畳のボロアパートに新居を持ちました。愚痴も言わず後悔もせず惚れた女房と静かに暮らしました。

 利子さんの実家徳島に行ったとき脳溢血で倒れました。利子さんはミシンを懸命に踏んで半身不随の彼を養いました。それから死ぬまでの長い15年、治郎八はもっとも安らかだったのかも知れません。最後は利子さんに抱かれ牛乳を少し飲んで瞑目しました。いまわの瞳に残ったのはシャンゼリゼでも純銀のクライスラーでもない、30年下の踊り子の慈悲のまなざしでした。男冥利につきます。(昭和51年―1976年・75歳)。

 彼は結局何も残しませんでした。富豪は「松方コレクション」、「大原美術館」など自分の名を付けた財産を残しがちですが彼の名はどこにも残っていません。生前、言っていたそうです。

 「爺さんがひとりで築いた富を孫がひとりで無くしただけ。別にどうということはない」。カッコええです。実にいさぎよい。わたしも一度でいいから言ってみたい。スカンピンに惚れ尽くした利子さんもエライ。やっぱ魅力あふれる快男児だったのでしょうね。

『「バロン・サツマ」と呼ばれた男』―村上紀史朗 著

(画像は図書・新聞・インターネット等から、または有料素材等からのものです。「許可なく転載を禁ず」以外の画像です。もし差し障りのある場合ご連絡ください。削除もしくは差し替えます)

                 ★   ★   ★

2009.03.20 / Top↑

★第一号はちょっと辛めですが(^_^;)甘辛、いろいろ取りそろえます★ 

        

20040722230705   世界最高峰のエベレスト(8844メートル)初登頂は1954年、ニュージーランドのエドモンド・ヒラリーが達成しています。

 けれどその29年も前にイギリスの登山家、ジョージ・マロリーはたった二人で初登頂に挑戦、頂上直下で遭難しています。遺体も発見されず、マロリーたちは頂上を極めた上で遭難したのかどうか、登山史上最大の謎でした。75年もたった1999年、国際捜索隊によって彼の遺体がついに発見されました。(画像は「古本屋の殴り書き」http://d.hatena.ne.jp/sessendo/さんより。クリックで拡大)

 初めてこの写真を見たとき強い衝撃を受けました。死してなお75年もマロリーはエベレストトップを目指し続けているように見えました。零下40度の低温は遺体を腐敗させることもなく、象牙のような純白の美しい肉体として残しています。マロリーは一歩でも半歩でも頂上ににじり上がらんとするようです。爪さえ立てて登らんとする迫力。今なおエベレストトップを仰ぎ見る彼の精神と肉体。

 マロリーがエベレストを目指したのはヒラリーに先立つ29年前の1924年です。たった二人の挑戦です。現代は装備も技術も食料もそのころからすれば驚異的に進歩しています。少しはヒマラヤの厳しさを知っているわたしから見ればマロリーたちは超人です。現代はエベレストのパック登山さえあります。カネさえ払えばある程度の経験があればエベレスト登頂も可能です。ザイルで引きずりあげてもらえばいいのです。粗末なまるで郊外の山にでも登るようなジャッケットと軍隊風のゲートルで二人はトップを目指したのです。冬山に必須のナイロンもまだありませんでした。

 もちろん公式には1954年のヒラリーとテンジンの登頂が初登頂として認められています。けれどマロリーは登頂後遭難したのか、登頂前なのか、それにより初登頂の栄誉はマロリーたちに輝くことになります。残念ながら遺体と遺品の精査でもはっきりすることはありませんでした。けれど彼の肉体はそんなものはどうでもよいと言っているようにわたしには思えます。「これが生き、そして死ぬということだ。倒れようとも汝の高みを目指せ」。精神がそのまま氷結した美しい肉体は、75年間天上からわたしたちを鼓舞し続けていたように思えてなりません。

        037gmallory3_5

                                                             ジョージ・マロリー

                                  享年37

                             イケメンです(^_^;)

エヴェレスト初登頂の謎―ジョージ・マロリー伝」―トム・ホルツェル他 著                                                                                                                                          

2009.03.18 / Top↑

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。