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★ もう何度も書きましたので耳タコと思いますが、戦争から帰り真っ先にすること、フランス人は妻の手を取り寝室へ、イタリア人は人妻の手を取り寝室へ。人間的です。ちなみに日本人は近所に挨拶回り(^_^;)。ヘタリアという漫画があります。ご存じの方多いと思いますが、戦争でのイタリア人のへたれぶりを書き、とてもおもしろいです。しかしでございます。イタリア人も第二次大戦ではファシズムに抗してパルチザンとして勇敢に戦っています。イタリア人はイタリアは自分たちで解放したと大きな誇りを持っています。要するに命令されて集団で闘うときは徹底的にへたれ、個人の尊厳をかけ戦うときは驚くほど勇敢、日本人とはおよそ正反対の民族性のようです。日本ではあまり聞きませんがパルチザンの愛唱歌さらば恋人よ」は今なお世界中で歌われています。親しくしていただいているブログさんで知ったのですが、天才ピアニスト、ミケランジェリもパルチザンに参加し、ピアニストの命、腕を負傷しているのですね。心から尊敬します。
(漫画はサイト「ヘタリア」さんより)

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★ 戦場では何はなくてもパスタ! 

 まあ、確かにへたれでございます。かって全ヨーロッパはおろか西アジアまで征服したローマ帝国の子孫とは思えぬへたれぶり、いくつかエピソードをご紹介します。(「
イタリア軍はなぜ弱いのか?」より)
● アフリカ戦線。イタリア軍部隊から救援要請があったのでドイツ軍中隊が戦力をさいて救援に向かった。「おー、グラーチェ」。イタリア軍は砂漠でパスタをゆでるため貴重な水をふんだんに使い、飲料水がなくなり、ドイツに救援を求めていたのだ(^_^;)
● 第二次世界大戦後、ユーゴパルチザンの捕虜になったドイツ兵はあくまで頑固で拷問にも屈することなくセルビア人の怒りをかったが、イタリア兵はすぐに泣いて許しを請うので拷問がとまった。
● わたしも見たことありますがケニアにはケニア山というアフリカ第二の高峰があります。イギリス軍の捕虜となり毎日ケニア山を見ていたイタリアの3人の捕虜、ある日脱走した。そしてやったことが。せっせとちょろまかしていた食料を持ってケニア山に何と初登頂。登ったらすました顔でまた収容所にご帰還。イギリス軍もあきれたとか。
ブラボー!
 ナポリでは丸ごと軍艦一隻かっぱらわれている。盗まれる軍人もへたれなら、ナポリのかっぱらいはものすごい(^_^;)
 まあ、イタリアは「10%の真面目な国民で支えられている」そうですけれど(^_^;)。ファッションショーのような派手な軍服を着て大量のワインやフルコースのイタリア料理を戦場に持ち込み、まあこれじゃ負けますわ(^_^;)。けれど何と人間的、うまいもん食って、女の子にちょっかい、これが人間じゃ。「ヘタリア」はイタリア人をおちょくっているようで実はいつも青筋立てているドイツ人や日本人をおちょくっているようです。イタリア兵は戦場でも驚くほどヒューマンです。そして調子がいい。生き残るすべを知っているのでしょう。第二次大戦でも終始要領よくというか、勝つ方についていっています。
 第二次大戦への参戦を決めたのが、フランスがドイツに敗北する直前、バスに乗り遅れるなと火事場泥棒で参戦しています。ちゃっかりドイツのあとについて、パリジェンヌをナンパしまくり、フランス料理食いまくり。それからもドイツにとってはお荷物でしかなかったでしょう。たびたびイタリア軍救出に出動しています。戦争終結時のイタリアは複雑きわまります。
 アメリカなどの連合軍が1943年7月イタリア・シシリー島に上陸します。ゲンキンなもので情勢の不利を悟ったイタリア国王はムッソリーを解任しパドリオ将軍に政権を任せます。山荘に幽閉されたムッソリーニをドイツのスコルツェニー中佐たちがグライダーで急襲し、救出したのは映画「鷲は舞い降りた」でも有名です。こんな作戦を成功させるドイツ人やはりはすごいです。自国領で少数のグライダー部隊にけ散らされたイタリア軍は相変わらずへたれですが。
 9月には連合軍がイタリア本土に上陸します。時のパドリオ政権はあっさり降伏し、今度はドイツに宣戦布告、変わり身の早いこと。まだ日本もドイツも激戦中です。激怒したヒトラーは何とイタリアを占領、かっての日独伊三国同盟はめちゃくちゃです。ドイツはしぶとくムッソリーニを首班に別の政権を作りイタリアは内戦状態におちいります。イタリアのパルチザンはムッソリーニ全盛の頃から、レジスタンス活動をやっていたのですが、ここに連合国と提携しドイツと戦います。不利を悟りスイスに逃げようとしたムッソリーニを捕獲したのはパルチザンであり、直ちに処刑されムッソリーニの遺体はミラノの広場に吊されます。かくしてイタリアは解放され、ちゃっかり戦勝国の地位を得たのです。戦後イタリアンリアリズムの映画が多く作られました。「無防備都市」も忘れられない映画です。神父がパルチザンを支援し銃殺されます。イタリア兵は神父を殺せずわざと的を外します。ここにも「神を信じるもの 信じないもの」の連帯がありました。

★ 「さらば恋人よ」 今なお歌い継がれるパルチザン歌

 これがイタリア人の哲学なのでしょう。調子のエエこと。ナチスより早くファシズム体制をとり、ドイツが強いときは尻馬に乗り、負け出すといち早くドイツに宣戦布告。ドイツは何度もイタリアを助けており同盟国と言うよりドイツの足を引っ張ったようなものです。
 イタリア人は最もファシズムや戦争には遠い民族なのだと思います。それがあのように結集したのはムッソリーニの大言壮語が生んだ幻想に酔わされたからでしょう。それだけ国民は貧しく打ちひしがれていたのだと思います。ドイツも全く同じ、第一次大戦の敗北による地獄を何とか脱出したかったのだと思います。貧しさは戦争に結びつく、大きな歴史の教訓です。
 集団で戦う戦争は上記のように信じがたいへたれですが、個人個人の意思による戦いは目を見張るものがあります。パルチザンは厳しい戦いを何年も続け多くの民衆が命を落としています。こんな歴史はドイツにも日本にもありません。華美な軍服で戦場にワインや豪華なイタリア料理を運び込んだイタリア人も一人一人の意思による戦いでは驚くほどストイックに戦い抜いています。それが本当の人間の強さなのでしょう。
ヘタリア 万歳!
 「さらば恋人よ」はパルチザンに歌い継がれた歌です。もともとは古いイタリアの民謡のようですが、悲しみを込めたとてもいい歌で大好きです。ピアノの演奏曲がありましたので、しばしご鑑賞ください。日本でも一時はやりました。今でも世界中でその国の言葉に翻訳され、民衆の戦いのあるところ歌われています。
 Bella Ciao で検索されれば歌入りのがたくさんあります。

  
ある朝目覚めて さらばさらば恋人よ
  目覚めて我は見る 攻め入る敵を
  われをも連れ行け さらばさらば恋人よ
  つれ行けパルチザンよ やがて死す身を  
  いくさに果てなば さらばさらば恋人よ
  いくさに果てなば 山に埋めてよ

  埋めてやかの山に さらばさらば恋人よ
  埋めてやかの山に 花咲く下に

  道行く人々 さらばさらば恋人よ
  道行く人々 その花賞でん


 
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2010.05.15 / Top↑
★ シャンソン「赤いポスター」です。歌うアナーキスト、レオ・フェレが曲をつけ歌っています。いい歌です。「私のメリネよ 愛するメリネ…」と歌いながら泣いています。なぜいい年のおっさんが泣きながら歌っているか記事を読んでいただくとわかります(^_^;)。このような歌を愛し続けるフランス人を心から尊敬します。フランスの詩人アラゴンの言うように今なお「神を信ずるものも 信じないものも」マヌキアンたちを人間の誇りにしています。隣のパン屋のおじさんが、カフェのお兄さんが命をかけて闘いました。当時の実写画像が生々しいです。



   神を信じた者も
   信じなかった者も
   ドイツ兵に囚われた あの
   美しきものをともに讃えた…   ルイ・アラゴン


 記事は1通の遺書と遺書をもとに創られた詩です。説明はできるだけ少なくして、原文そのものを読んでいただきたいと思います。ナチスに占領されたフランスで、レジスタンスに挺身し処刑された人の記録です。ギー・モケは処刑時、わずか17歳、まだ子供です。ほんとうに驚嘆します。銃殺を前にこの若さで、家族と同胞を思いやり死んでいきました。一方はミサク・マヌキアン、フランスで抵抗運動に命を捧げますが彼はアルメニア人です。妻に、わたしの死後は幸せにできる人と結婚し、子供を産んでくださいと訴え、ただただ残されるものの平安を願う精神の高貴さ、わたしの惰弱な心を打ちます。

★ 僕の子どもの心にあるすべてを込めて… ギー・モケ 

 
guiギー・モケの手紙は最近フランスのサルコジ大統領が愛国教育に利用しようと高校での朗読を半ば強制し、ニュースになりましたのでご存じの方もいると思います。しかしそこはフランス人、歴史的背景の説明なしに手紙だけを強制することに多くの教員・高校生が反対しました。ギー・モケを最大に評価しているにもかかわらずです。さすがと思います、フランス人に強制は禁物それにしても日本で言えば首相が小林多喜二の手紙を強制するようなもの、考えられないです、というかフランスに「愛国者」は左翼しかいなかったのでしょう。
 ギー・モケは1940年、パリで反ナチスの非合法ビラを配布しているとき逮捕され翌年、26名の共産党系同士と共に処刑されます。わずか17歳です。「最後に。あなたたちすべてが、わたしたちに、これから死んで行く27人にふさわしい存在であり続けてください!」、精神の高貴さに深く頭を下げます。伝えられる話では彼は処刑直前、失神したそうです。さもあらんと思います。写真のようにまだかわいい坊やです。「僕は生きたかった」、「勇気を出して!」、本当にむごいです。彼のやったことはただビラを配っただけです。いかに気を張って死にむかったことでしょう。処刑される夫に会いに来た女性がギー・モケのあまりの純真さに身代わりを申し出たという話も伝わっています。彼の父もレジスタンスに身を投じ投獄されています。現在もフランスの多くの駅や通りに彼の名がつけられ、その精神が伝えられています。

「僕の大切なお母さん
 僕の大好きな、可愛い弟
 僕の愛するお父さん

 僕はこれから死ぬのです!僕があなたたちに、なかでもお母さん、あなたにお願いがあります。それは毅然としていてほしいということです。僕は毅然としています。そして僕の前に殺された人たちと同じくらい毅然としていたいのです。もちろん、僕は生きたかった。でも僕が心から願うことは、僕の死が何かに役立ってほしいということです。僕にはジャンに接吻する時間がありません。僕のふたりの弟、ロジェとリノには接吻しました。しかし本当にはできません。ああ!僕の身の回りのものすべてが、お母さんに送られることを望みます。それはセルジュに役立つでしょうから。僕はセルジュが、ある日それを持つことを誇りに思うことを願っています。お父さん、あなたに。もし僕がお母さんを悲しませたと同じくらいお父さんを悲しませたとしたら、僕は最後にもう一度あなたに別れの挨拶をします。あなたが僕に指し示した道を、僕は最善を尽くして歩いてきたということをわかってください。
 最後の別れを、僕のすべての友達に、僕が大好きな弟に。(立派な)男になるように、しっかり勉強をするように。17年と半年、僕の人生は短かったけど後悔はしていません。僕は叔父さん、ミッシェルと一緒に死んでいく。お母さん、僕があなたに望むのは、僕があなたに約束して欲しいのは、気をしっかりと持つこと、そして悲しみをのりこえることです。
 もうこれ以上書けません。僕はあなたたちみんなに、おかあさん、セルジュ、お父さん、
僕の子どもの心にあるすべてを込めてあなたたちに接吻をしながら、僕は去って行きます。勇気を出して!
  あなたたちの愛した、あなたたちのギィより。
                   ギィ
  最後に。あなたたちすべてが、わたしたちに、これから死んで行く27人にふさわしい存在であり続けてください!

                                           (翻訳 jeanvaljeanさん)

★ 人生よ 光よ 風よ これが最後の別れだ

 アルメニア人
も迫害の歴史を持っています。ノアの箱船が流れ着いた430PX-~1という伝承を持つアララト山のある西アジアの国ですが第一次大戦時、トルコにより100万近い人々が虐殺されたと言われています。ミサク・マヌキアンはアルメニア人です。虐殺で父を失った彼はフランスに渡り共産党員として対ナチス・レジスタンスに挺身します。しかし逮捕され同士23名と共に銃殺されます(動画にも出てくる女性1名は斬首)。彼らは目隠しも拒否し「フランス万歳!」と叫びながら死んでいきます。フランス解放、わずか1年前です。処刑されたのはフランス人は3名だけで、あとはスペイン人やイタリア人などでした。国際的に連帯してナチスと戦っていたのです。
 のちにルイ・アラゴンはミサク・マヌキアンと共に処刑された22名を悼んで「赤いポスター」の詩を書いています。その後、レオ・フェレにより曲がつけられ、今なおフランスで広く愛されています。彼の名もパリの通りに残っています。
 彼は妻に手紙を残しています。「死ぬ瞬間、私はドイツの民衆にも誰にもいかなる憎しみも持たないことを宣言します」、「愛するメリネ、愛する孤児メリネ…戦争の後、必ず結婚して、私の幸福のために子どもを産んでほしいと私はきみにお願いします。そして、私の最後の望みをかなえるために、きみを幸福にできる人と結婚してください」、死を前にこれほどの手紙を書けるのです。言葉が真に生きるとはどのようなことか痛感します。
 ミサク・マヌキアンの最後の手紙をもとに歌われた「赤いポスター」の一節です。

「皆に幸いあれ、生きのびる者たちに幸いあれ
私はドイツの人々への憎しみはいだかずに死ぬ
苦しみよ 喜びよ 薔薇よ これが最後の別れだ
人生よ 光よ 風よ これが最後の別れだ
後々エリヴァンで何もかもが終わったとき、
きみは美しい現実世界にとどまるのだから
結婚し 幸せになり ひんぱんに私のことを思い出してほしい
冬の大きな太陽が丘を照らしている
自然はなんと美しいのだろう しかし 私の心は張り裂けている
しかし 正義がわれわれの勝利の歩みの上にやってくるだろう
私のメリネよ 愛するメリネよ 私の孤児よ
どうか生きて、子どもを産んでほしい」

              (ルイ・アラゴン 翻訳 村野瀬 玲奈さん)

※ おまけです。詩と曲を作り歌うレオ・フェレ、77歳でなくなる前まで意気軒昂。おフランスのシャンソンと違いシャンソンのパンク、やっぱ顔が不敵にアナーキー(^_^;)
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2010.05.13 / Top↑
POMPADOUR,_marquise_de_(esquisse)★ 今回はポンパドゥール夫人です。彼女はルイ15世の愛妾、フランス革命前に亡くなっています。才色兼備の優れた女性であった彼女はフランス革命を予見していました。「わが亡きあとに洪水来たれ」、まあ何という大胆、開き直り、ホンネとしては実に見事と言わざるを得ません(^_^;)。鮮やかに勝ち逃げし、すぐにフランス革命の大洪水。前回あまりにも凄惨でしたので今回はポンパドゥール夫人が庇護したロココ芸術も若干紹介します。平民の子から愛妾、王までも操り、政治的にも文化的にも大きな働きをした彼女、いやお見事。
 ただ凄まじい血の洗礼のあとにも自由・平等・博愛の理念は残りました。それが最大の遺産と思い、信ずる「正義」のために命をとして戦ったフランスの男たち、女たちにやはり深い敬意を捧げます。

★ 「わたしの時代が来た!」 登りつめた生涯 

 ポンパドゥール夫人は1721年、パリに銀行家の娘として生まれます。上流ブルジョワ階級です。教育も貴族に負けないものを受けますが身分的にはあくまで第三階級の平民です。優秀な頭脳と輝かしい美貌に恵まれました。何より強烈な上昇志向を持つ野心に満ちた女性でした。20歳で徴税請負人ノルマン・デティオールと結婚します。(今の税務署のお役人と違い、徴税請負人は絶大な権力を持つ支配者の一端で革命期には多数処刑されています)
 あくなき知識欲により当時の一流知識人のサロンに出入りしますが、平民の出であり貴族には複雑なコンプレックスを持ちます。それを一気に解消する方法、彼女は何と時のルイ15世に取り入ることを考えます。23歳でした。王との出会いは仮面舞踏会、また王が狩りに行った森とも伝えられていますが、いずれにしろいかにも王朝絵巻、彼女が積極的に王との出会いを画策したのは間違いないようです。名だたるスケベェのルイ15世、彼女の美貌にイチコロ、さっそく今までの愛妾はお払い箱、やがて彼女はルイ15世の公妾となります。公娼ではありません、念のため。公妾は制度として正式に認められたものであり公の席にも出ることが許されました。彼女の夫は「フランス一有名なコキュ(寝取られ男)」になったのです。しかし、この夫とも正式な離婚は認められません。熱心なカトリック国であるフランス、今も離婚には厳しいですが、まあ、制度や建前はどうにでもなるもの、彼女は人妻のまま、フランスのファーストレディとなります。平民は公妾になれないため、公爵夫人の称号を与えられポンパドゥール公爵夫人と呼ばれます。
 それにしても、戦争から帰り真っ先にすることは妻の手を取り寝室に行くことと言われるフランス人ですが、ルイ15世は際だっています。まあ、イタリア人は隣の奥さんの手を取り寝室へと言われますけれど(^_^;)
468px-Fragonard,_The_Swing 彼女が言ったように「わたしの時代が来た!のです。完全に貴族の女に勝ったのです。それからはまさにやり放題、多くの豪華な宮殿を建てさせ、政治には関心がなくあっちをやり放題のルイ15世に代わり政治の表舞台にも登場し王の摂政とすら呼ばれます。宿敵であったオーストリアとの同盟を提唱したのは彼女であり、これにより、マリーアントワネットがフランスに輿入れします。まあ、マリーの処刑の遠因を作ったのは彼女とも言えるわけで、因果は回るチンチロリン。
 彼女は学芸、芸術面にも造詣深く、時の一流文化人を集めサロンを作っていました。フランス革命の思想的背景ともなる百科全書派の知識人も侍らせており、ポーズにしてもたいしたものです。またロココ調の芸術は彼女の庇護で絶頂期を迎えています。バロックの重厚に変わり優美な曲線、華麗な文様のロココ芸術、政治的にも文化的にも何も残さなかったルイ15世に比べ際だっています。
 彼女は本当に利口だったと思います。彼女の唯一の弱点は健康でした。絶倫男ルイ15世のお相手も30にならずして出来なくなります。ここで熟慮、彼女はフランス版大奥を作ります。馬鹿の園、あ、失礼、鹿の園を作り、身分は問わず国中から美女を集め、ルイ15世に提供します。一人の女に寵愛が集まると自分の身分が危うくなる、次から次へ15世が目移りしていけば我が身は安泰、絶妙の知恵です。くだんの王様、「ウィ、メルシー!」てな具合でそこに入り浸り、やはり革命は大賛成でござります。
 あ、何も残さないと失礼なことを申しました。15世、鹿の園で200人以上の女性に奉仕し、わかっているだけで60人ほどの子供を残しています。回転率を高めるのが目的ですからほとんど一回でお払い箱、のちの革命期に判明した子女は酷い目にあいました。彼女は自分のためにのみすべてを利用したのです。非情と呼ぶにはスケールが大きすぎます。
 
ポンパドゥール夫人は自ら味わった宮廷生活が永遠に続くものではないことをよく知っていました。それほど腐敗、堕落は極に達していました。豊富な財政もこの頃から傾いています。だからなおさら奢侈を極めたのでしょう。彼女が言った「わが亡きあとに洪水来たれ」、何というふてぶてしさ、でもよく考えたら人間のホンネはこうなのかもと思います。子孫のため本当に今を慎むものがどれだけいるでしょうか(わたしもですが(^_^;))。その意味では極めて正直な女性だったのでしょう。彼女も健康にだけは勝てませんでした。1764年、42歳の若さで亡くなります。予言通り25年後、大洪水がブルボン王朝を洗い流しました。思えばいいときに去ったのでしょう。

★ 人間の愚かさと崇高 今に残るロココ芸術 

 洪水と言えば西洋人は聖書のノアの箱船の洪水なのでしょう。ノアは神に愛でられた善良な人でしたが、
ポンパドゥール夫人もいわば最高の箱船に乗っていました。しかしその箱船は大火山の上に乗っていたのです。来るべき大爆発のエネルギーを秘めた火山の上で、王たちは死の舞踏を踊っていました。ほとんどの貴族もそれは気づかなかったと思います。それを見抜いていた彼女、やはり並みの人ではなかったのでしょう。平民出だから平民の怨念もわかっていたと思います。
 わたしはやはり20代で老婆のようになり痛苦の生涯を終えた民衆のことが忘れられません。ヤボは承知で華麗な芸術のうしろに民衆の涙を見ます。ロベスピエールたちもきっとそうだったでしょう。無数の血が流されたフランス革命、自由・平等・博愛を残すため、あれほどの血が必要だったとは、わたしももちろん思いません。人間の愚かさと崇高さを驚きを持って知ります。選挙で政権を変えることができる現代、暴力による革命は必要でないことも言うまでもありません。そして思うのはフランス革命の暴虐も20世紀の戦争や虐殺の暴虐に比べれば子供だましのようなものだと言うことです。
 最後にポンパドゥール夫人の遺産とも言える薔薇のロココ芸術。文化芸術はもちろん豊かさあってのもの、時の民衆にその余裕は全くありませんでしたが、彼女は華麗きわまるロココ芸術を残しています。今は人類共通の財産となった芸術には彼女に感謝します。
 また髪型にもポンパドゥールと言うのが今もあってリーゼントのような型だそうですが、そう言えば上の画像はそんな髪型のような。

  画像左 ロココ調を代表する建築 ドイツのヴィースの巡礼教会
    右 フランス・セーヴィル焼きの磁器 夫人が庇護した
    中 ロココ調の絵画 「ぶらんこ」 フラゴナール
      
800px-Wieskirche_rococo_interior   1810_03
2010.04.26 / Top↑
★ わたしのデー嫌いなイケメン組です。ロベスピエールと共に恐怖政治を断行し、テルミドールの反動で処刑されたサン・ジュスト。「革命の大天使」と呼ばれ女性的とも言える美貌で日本でも、ファンクラブができるほどの人気。一方の王党派ではロシュジャクラン伯爵。こちらは「大天使」の異名、いずれ劣らず美形です。日本では両方好きという女性が多いようで苦笑ですけれど。まあ、大天使同士の果たし合い、どちらも最後まで信念を貫いて戦い抜き、サン・ジュストは26歳、伯爵は何と21歳で世を去っています。イケメンは顔だけではありません。伯爵はいずれとして、今回はサン・ジュストの最後を短編にしてみました
 前に書きました「雨」ではないですが、つくづく「善魔」は怖いと思います。二人とも「正義」の死闘でした。革命派ではサン・ジュストほど革命の理想を追ったものはないでしょう。もともと詩人、この世に美しいイデアを求めたのだと思います。そして最後、それに絶望し、虚無に沈んでいきました。「革命家」とはもともと虚無主義者のような気がしてなりません。そうだとすればれほど傲慢なものはないでしょう。ただわたしは、このような「狂気のもの」が輝ける理念を示し、少しづつ人間は「正気のまま」その理念に近づいていくと思っています。

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上がサン・ジュスト
右がロシュジャクラン伯爵です。
これで見ると革命派が負けているような(^_^;)。いずれもウィキペディアに略歴があります。「私が前進するときは私に続け。後退するようなことがあったら、私を殺せ」と言って戦った伯爵もすごいです。


短 編
        アデュー


 「と殺者!」
 「悪魔!」
 パリ中央革命広場への道は怒号に満ちていた。黒灰色の雲が力のない夏の日を隠し、雲の端から灰色の光とも見えぬ淡い光輪が広がり、いつしか空に吸われていた。風が吹かぬ。大気は雨をはらんでいた。汚れたシャツをまくり上げ男が再び叫んだ。
 「と殺人!」
 頭を黄色い布で束ねた女が、開いた瞳に殺気をみなぎらせ言葉を投げた。
 「悪魔!」
 サン・ジュストの青い瞳は閉じられていた。白いシャツに紺色のタイツ、高く首を巻いたカラーは無惨に汚れていた。長い金髪が夏の湿気にじっとりとカラーにまとわりついている。ぬるい汗がひと筋、額を伝わった。シャツには連なる花のように血痕が散っていた。ロベスピールの血だ。昨夜遅く市庁舎に乱入した国民公会の軍人たちはロベスピエールやサン・ジュストを補足した。市庁舎のホールに銃声がこだました。ロベスピエールは迷わず短銃をおのが喉に撃ったが弾は外れ、あごを打ち砕いた。サン・ジュストは駆けよりロベスピエールを抱いた。
 「殺すぞっ」
 抜刀した若い兵士がサン・ジュストを押しのける。若い獣のような体臭が血の臭いに混じった。サン・ジュストは兵士に海の底のような暗い目を投げる。支えを失ったロベスピエールが音を立て床に崩れた。サン・ジュストは無意識に涙の流れていることを知った。おのれにも涙は残っていた、膜の張ったように薄れゆくロベスピエールより、サン・ジュストはそのことに驚いていた。
 「殺すな。裁判にかけるのだ」
 青い将校服の男が短銃の背でサン・ジュストの頭部を打ちつけた。
 ロベスピエール一派の措置は巻き返しを恐れ矢継ぎ早だった。翌朝、形ばかりの裁判でその日の内の処刑が決定された。22名もの大量処刑である。

 先の荷馬車にロベスピエールが乗っていた。打ち砕かれたあごに汚れた布を巻いているだけだ。しかしロベスピエールはしっかと粗末な椅子に座っていた。荷馬車の揺れに頭が不規則に上下していた。時折り、くずおれる。そのたびに両脇の兵士が金髪をつかみ顔を引き上げた。サン・ジュストはおのが手に抱かれたロベスピエールに涙を流したあと、再び泣くことはなかった。
 「王殺し!」
 高い女の声だ。サン・ジュストの青い瞳が開いた。雲を縁取っていた光は雲に吸われて灰色の空は意味もなく広がっていた。開いた瞳にいっそう声を張り上げる民衆が写っていた。一時はサン・ジュストを神のように持ち上げた民衆である。 
 「王は存在自体が罪である。王は神であるか…無である」、サン・ジュストに不意に言葉がよみがえった。ルイ16世の裁判で彼の演説は王の運命を決めた。王のたるんだあごが生きているようにサン・ジュストによみがえった。
 罪をあがなうもの、サン・ジュストは低くつぶやいた。荒れた髭の男の声も、引きつれた女の声も聞こえなかった。王は罪である、王のたるんだあごにサン・ジュストは再び確信した。王は罪であり、王は罪をあがなった、いや、あがないえたか。ここまで思い、足が震えているのに気づいた。後ろ手に縛られどうすることもできなかった。
 「おい、ルイ。震えているのか」
 兵士が指さした。サン・ジュストを見下ろし黄色い歯を見せ笑った。神のように超然としたサン・ジュストの初めて見る震えだった。サン・ジュストは兵士を見上げた。淵のような深い瞳に暗い光が湛えられていた。兵士の息をのむ声が聞こえた。
 サン・ジュストは兵士の開ききった瞳をのぞきながら確信した。人はみな自ら罪をあがなうもの。神もおのが罪をあがなえない。少年の日に見た初めての遺体、彼は音がするほど震え父の腕にしがみついた。生まれたことのあがない、死者のみが無垢である、いや未だ生まれぬものが至高の無垢である。自由・平等・博愛、美しい言葉は人間の言葉ではない。おのがそのために生き、死んでいく言葉、殺し、殺し尽くせばかなえられると思った美しい言葉、それは滅び行くものにこそふさわしい。サン・ジュストは初めて国王に哀憐を感じていた。肥満したあごが心底なつかしかった。

 革命広場は怒濤のようにざわめき、うねっていた。王を処刑したときと同じうねりだった。民衆は地が見えないほど広場を埋め尽くしていた。赤い帽子をせわしく振っているものもいる。ほほ骨を尖らした男が、荒れた髪を布で縛り付けた女が、獲物を待っていた。青い服に赤いモールの騎馬兵士が着剣し並んでいた。ひと声、頭を揺すり馬がiいなないた。薄い闇が広がっていた。民衆のうねりは大波となり広場に幾度も打ちつけた。
 「ルイ」
 かすれた声で、将校がサン・ジュストを呼んだ。見覚えがある。サン・ジュストはゆっくりと前に出た。見上げる空に4台の断頭台が死のように静まっていた。すすり泣きが聞こえた。年若いアンリオだ。サン・ジュストは肩を抱き乱れた金髪に接吻した。
 「急げ」。断頭台からの声が死をせき立てる。
 サン・ジュストはおのれを見つめる目に気づいた。ロベスピエールだ。あごを砕かれ声も出せぬ彼は両脇を兵士に支えられ、サン・ジュストを見つめていた。不思議に澄んだ目だった。足の震えは再びくることはなかった。
 「アデュー」
 サン・ジュストは低い声をロベスピエールに贈った。ゆっくりとロベスピエールがうなずいた。これほどロベスピエールの目は優しかったのか。
 「行けっ」、兵士が銃の台尻で背中を押した。
 階段を登り、壇上で後ろ手がほどかれた。なすがまままのサン・ジュストは静かに民衆を見渡した。風が出ていた。生暖かい風がサン・ジュストの金色の髪を洗った。髪を長い指でかき上げ、なおも民衆を見下ろしていた。おのれが信じた理念に生きる美しい民衆、侮蔑も諦観もなかった。あれほどのうねりが恐ろしいほど収まった。かって歓呼の声を上げた革命家が目の前に彫像のように静まっている。長い髪だけが風になぶられている。革命の5年が幻となって消えていく、その喜びと、そして恐れが民衆を支配していた。
 「アデュー」、サン・ジュストは言葉を飲みながら贈っていた。

 仰向けになることを望んだ。おのがあこがれを一瞬に断ち切るものをしかと刻んでおきたかった。断頭台の刃に一瞬光がよぎった。銀色の刃が黒い空に救いのように浮かんでいた。
 「罪をあがなうもの…人はあがないうるのか」、サン・ジュストはまなこを開き刃を見上げていた。
 兵士のうなるような声が聞こえた。
 銀色の刃は宙を切り裂き、笛のような音を立て、サン・ジュストに落ちていった。

★ あとがき ★
 
 学者はとはヒマなものでロベスピエールがドーテイであったかどうか研究した人がいます。結論はドーテイ。最後まで質素なアパートに住み一切の享楽を遠ざけました。ドーテイほど恐ろしいものはないのですね。わたしのような俗物が笑うのは簡単ですが。サン・ジュストも結婚したことはありません。アンリエットという婚約者はいたのですが、なぜか結婚しませんでした。一説では死を覚悟していたサン・ジュストが彼女を巻き添えにしたくなかったとのことです。サン・ジュストは若い頃相当放蕩したのですが革命後は極めてストイックでした。そして実際サン・ジュストの首はまなこを開いていたそうです。凄まじい精神力。彼らの死のあと、革命は変質し、政治屋の世界になったのははっきりしています。
2010.04.24 / Top↑
★ フランス革命は本当に興味を引きます。人間の極限のドラマが繰り広げられました。後の人間がコーヒーでも飲みながら楽しむには格好のものでしょう。日本と違うと思うのは女性が表舞台で相当活躍していることです。暗いイメージのロシア革命と違い華やかです。「暗殺の天使」と呼ばれ、革命リーダーを一人で刺殺した美女もいれば、何より前に書きましたように王一家をヴェルサイユからパリに引っ張ってきたのはおかみさん連中(ヴェルサイユ行進)、この時点で王家の敗北は決まっていたのでしょう。
 今回こぼれ話編?ということで、パリのトイレ事情、美女組について記載します。人物はあとで改めて一項を立てる人もいます。

★ パリ トイレ事情

 花の都、パリも当時はトイレがなく実際は異臭の都市だったことはよく知られています。ヴェルサイユ宮殿からして王族は別としてほかに数少ないオマル型便器があっただけ。これは事実のようです。華やかな舞踏会場にももちろんなく、もよおしたら庭に出て堂々と。やんごとなきお方も食べたら出すのは理の当然。何千人といた使用人が毎日どうしていたか。宮殿や廊下の隅、庭の隅でやっていたそうですから、まあ全体がうんこの宮殿みたいなもの。珍しいきれい好きの貴族は携帯用便器、ようするにオマルをもっていてそれにしたそうですが、家来がすぐにそれを庭に捨てたので環境上は同じこと、まあいくら家来とはいえ、もっこりの便器もってついてはいかんでしょう。
 原因で考えられることは?水が少なかった―古来から天然水洗便所が普及していた日本は幸ウンです?乾燥しているので日本のようにべちゃべちゃにならない―納得。?そもそもうんこに対する思想が違う―これが一番大きいのかも。それまで体内にありお友達だったものを、一旦外に出るやいなや蛇蝎のように嫌うのがちとおかしいのか、おかしくないのか、うんこも立派に哲学になります。あれほど個人主義の西欧人が未だにトイレだけは意外と開けっぴろげ。ま、わたしも嫌いですが。
 ?、?の理由で当時のフランス人はほとんど風呂に入りませんでした。シャワーももちろん。当然体は臭います。それを消すために香水が発達したのも有名な話。狩り好きのルイ16世は馬の臭いがしたそうです。王宮ですらそうですから、パリの街はうんこの山、庶民もさすが部屋ではしなかったようですが、オマルにしてそれを景気よく窓からぶちまける。「イクヨー!」、「オー、チョットマッテー!」てな調子です。ファッションの都、パリですが、ハイヒールもうんこの道を通るためのやむを得ざる発明で、中には高さ50センチのもあったとのこと、もう竹馬。優雅に広がったスカートもそれに便器を隠し用を足すために広まったとのこと、何のことはない、うんこはファッションの母、オヤジの入った後のトイレに行かない日本人、とても花の都では生きてはいけまへん。
 これはイギリスもドイツも似たようなもの、中世、ペストなどの伝染病がはやり甚大な被害をもたらしましたがトイレ事情も大きな理由でしょう。ただ当時の人はそれこそばい菌で出来ていたようなもの、その面では異様にたくましかったのは間違いありません。清潔に慣れた現代日本人は冗談抜きに一日も生きていけなかったと思います。その証拠にあの太陽王、ルイ14世、異様に細菌嫌いで医者に命じ、熱心に体内殺菌し、おかげで腸内の消化細菌までお陀仏で、年中下痢気味だったとのこと。よくオマルに座り命令書を書いて渡したと言います「苦しゅうない。近うよれ」とのたまったのでしょうか「近うよれ」、言われても(^_^;)

★ 美女組

 「ヴェルサイユのBARA」の宝塚、雪組、花組などにちなみまず美女組です。
 
474px-Marie_Antoinette_Young2? マリー・アントワネット
 やはり敬意を表する意味でもマリーアントワネットでしょう。確かに残っている肖像でも魅力的です。当時のヨーロッパ王室は政略結婚により王室の基盤を盤石にしていました。マリーも当然そうで聖ローマ帝国(オーストリア)のハプスブルグ王朝ブルボン王朝と縁を固めるためフランスに贈ったものです。ハプスブルグ家もブルボン家もヨーロッパ各国に血縁を送り、ヨーロッパ各国の王はいわば親戚です。王族ほど狡猾なものはありません。その意味ではマリーはやはり悲運だったと思います。彼女の母マリア・テレジアが女傑で実質神聖ローマ帝国皇帝でした。マリア・テレジアは送り込んだマリーのことを最後まで心配していたそうです。彼女がマリーの処刑を知らずに亡くなったのはせめてもの救いだったでしょう。
 これはゴシップのたぐいになりますが、10歳で虐待され死んだルイ17世、彼は実はルイ16の子ではなく、前に書きましたスエーデン貴族フェルセンの子ではないかということが当時から言われていました。状況証拠は結構あります。ルイ16世は当初不225px-Louis_Charles_of_France5能でありけして子宝に恵まれた方ではなかった。ルイ15世は正妻との間に10人の子、愛妾15人(やっぱ革命大賛成!平等!博愛!(^_^;))で子供の数は数えきれずと言う絶倫男でしたが、16世はマリーのほかは目もくれず、きわめて不思議な王様(爆)。マリーともあまり同衾しなかったと言われます。若いマリーがフェルセンに引かれたのもよくわかります。相思相愛は紛れもない事実。どっちかゆうとイケズメンだった16世に似ず、17世はかわいすぎるようにも思いますがこればっかしは専門家でもない限りわかりません。後にフェルセンが命をかけてマリーを救おうとしたのも妻とわが子を救うためであれば納得できます。わたしも当時の貴族の純愛などあまり信用していません。ゲスの勘ぐりの感なきにしもあらずですが、当時の庶民は恨みもありこ皆なこれを信じ、そうなるとフランスを牛耳ったオーストリア女とスエーデン男の子であり、フランスには何の縁もない。犬以下に扱ったのもわかる気がします。もちろん、子供にはまったく罪はなく哀れです。真実はマリーが知っているだけですが、いずれにしろこうした噂が立つこと自体マリーの不徳の致すところでしょう。もしそうなると、知れば知るほど善良な王に見えるルイ16世も哀れです。やっぱ歴史の陰に女あり。

445px-Charlotte_Corday★ シャルロッテ・コルデー
 フランス革命では貴族、革命派ともに魅力あふれる女性も多く、美女も多いのですが、「暗殺の天使」として今なおフランスでは人気抜群というシャルロッテ・コルデーです。貧乏貴族の娘であった彼女は一生を修道院で暮らしたいと思うほどの敬虔で物静かな女性でした。一応貴族の娘でありジャコバン派には反感を持っていたのですが、町に逃れてきたジロンド派の話を聞くにつれますます反感を募らせ、当時ジャコバン派のリーダーと見なされていたマラー暗殺を決意します。それから一直線、パリに行き、マラーの心臓を一刺し、暗殺します。24歳でした。直ちに捕縛され、即決裁判でギロチン送りになるわけですが、当時からその美貌が評判になり、処刑場は男どもで押すな押すなの大盛況だったとか。絵もいくつも残っています。革命期に限らず、いやフランスに限らず当時の処刑は公開で庶民の最大の楽しみでした。ほかにさしたる娯楽もない庶民、人の断末魔を見て楽しんでいたのです。人間が神の子、とんでもありまへん。
 絵は後に革命が否定された帝政期に描かれたものでいかにもシャルロッテはキリリと美しく、当時は救国の女性と特にもてはやされました。しかしマラーもまれに見る革命家でした。皮膚病に苦しみほぼ一日中浴槽につかっていました。病身を押して民衆の願いには最大限耳を傾け、民衆に慕われました。その気持ちがあったため陳情を偽ったシャルロッテも浴室に入れ、浴槽の中で刺殺されます。後に書きますが
ロベスピエール、サン・ジュスト(のち刑死)とともにわたしは最高の革命家だったと思っています。マラー死後、財産は何もないことがわかりました。妻シモーヌの純愛も泣かせます。
 ただ鉄の意志を持ち女一人で名高い革命家を一突きにし、従容とギロチンに登った彼女もやはりすごい。
 くだらぬダジャレですが高校の先生、「マラーがマラで殺された」とのたまう。マラーさんごめん。ただそれで終生忘れ得ぬ人に(^_^;)

★ うんこの話で思わぬ長さになり今回はこれまでに。次回はデー嫌いなイケメン組とかいきまする。
2010.04.23 / Top↑

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