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★ 「アジャパー」、今は全く死語でしょう。かって伴淳三郎こと”ばんじゅん”さんがはやらせた言葉です。アジャパーコンビ、鴨志田穣さんとサイバラこと西原理恵子さんの「アジアパー伝」。西原さんのマンガだけでもとてもおもしろいです。鴨志田さん、こんな御仁がいたのですね。ハチャメチャにして繊細、剛毅か狂気か泥まみれ、とにかくおもしろいです。

★ さめぬ酔い グレてやるー 51pjfr6f5ml__sl500_aa240_

 鴨志田穣(以下鴨ちゃんとします)、1964年、川崎市生まれですが北海道で育ちます。人並みに大学に行こうとしますが、浪人2年であきらめ上京します。焼鳥屋で働きながら、俺は日本に収まるタマではないと勝手に思いこみカメラをもってタイへ、あっちゃこっちゃ放浪です。ここで幸か不幸かフリージャーナリスト橋田信介と出会い運命がきまります。(橋田信介氏、覚えていらっしゃると思いますが2004年、イラク戦争取材中狙撃され命を落としました)。その後二人で世界の紛争地域を取材します。カンボジアではポルポト派に捕まり危うく命を落とすところでした。
 死体が無造作に転がる戦場、銃弾をかいくぐる取材、極度の緊張は彼をアルコール依存症におちいらせます。それはもうひどいものでした。酒断ちのため僧侶にさえなっています。1996年、タイで西原理恵子(以下サイバラとします)と知り合い、アマゾン川取材後の飛行機の中でサイバラにプロポーズ、やることすべてインターナショナル。結婚し、2児をもうけました。アルコール依存症は重くなるばかりで、数々の武勇伝を残し精神病院にも入退院を繰り返します。2003年にはついにサイバラと離婚。しかしここでサイバラの菩薩のような愛が発揮されます。離婚後も鴨ちゃんの面倒を見てなんとアルコール依存症を克服させるのです。著書のとおり「酔いがさめたら、うちに帰ろう」です。しかし鴨ちゃんはすでにガンに犯されていました。サイバラは看病のためまた鴨ちゃんと同居します。しかしその甲斐なく2007年亡くなります。まだ42歳でした。
 鴨ちゃんに負けず劣らずサイバラもハランバンジョー、シップウドトーの人生。1964年、高知に生まれます。高知ではおてんばをさして「はちきん」と呼びますが、はちきれ、はちきれ、はちきれまくり。(4人の男衆を手玉に取るき、4人×2金=8金ながやと)。実父は3歳の時アルコール依存症で死亡、その後母は再婚を繰り返し、一人の継父はギャンブル依存症、彼女の大学受験日に自殺します。通常の乙女であればここでグレてやるーと来るところ。まあ、結局グレたのですが。母も文字どおり8金でした。
 サイバラ、女子高在学中、飲酒により退学処分、ここであきらめるタマではない。借金して[E:happy01]高校を訴えるからもう18金。父の保険金もって上京、アルバイトで暮らしますが勉強して大検の資格を取りますからたいしたもの。「しょうもない」美大に合格します。画くことは好きでそれが認められ、マンガ連載を始めます。まあ、乙女の純愛はガラではなく、パチンコ、マージャン、反グルメのヤサグレ街道。ギャンブルを画くにはギャンブルを知らないとと、勉強か趣味か知りませんが入れ込み入れ上げ、あげくに、10年間で5000万円の大損、普通ここで首くくるはずですが、しぶとく1996年鴨ちゃんと結婚します。選んだクジ、スカだったのか、上記のようにやがて離婚。しかしその後も同居して鴨ちゃんを看取ります。今では新聞に「毎日かあさん」の連載や、映画化される「パーマネント野ばら」などサイバラブーム続いておりまする。

★ 真性アジアのパー  

 恥ずかしながら、アジアパー伝を読むまでサイバラさんの名前知りませんでした。下手な絵ながら妙に味のあるマンガはもちろん知っていましたが、名前と結びつきませんでした。「アジアパー伝」にもサイバラさんのマンガたくさん載ってます。
 わたしもタイやネパールは行ったことありますが、もちろん一過性の観光、鴨さんのように腰をすえたことはありません。それでも東南アジアのカオスにむせび、街に染みついた香ばしい匂いにアジアのノスタルジアを感じます。目次はこうです。①ミヤタのおっさん②カワズさんの夢……⑥雇われて戦地へ⑦ミャンマーの未来⑧ぼくの一目惚れ⑨ゲリラとの遭遇、ミヤタのおっさん、カワズさんはもちろん日本人です。タイ在住が長く日本人を忘れた日本人、いかがわしく遊び人でエエころかげん、鴨さんも長居する間に完全にそっちへいってしまいます。後に殺される橋田信介さんも出てきて大きな影響を受けます。
 けしてうまい文章ではありません。そこがサイバラのヘタウマのマンガと妙にあっています。飾ってもしょうがない人間存在そのままがドサッと目の前に投げ出されています。善も悪も美も醜もユメもチボーもありません。ただ生きているのです。生きぬく迫力。
 鴨さんは何のためこれを書いたのでしょう。アジアの混沌をどげんかせんとイカンという、どこぞの知事さんの使命感、サラサラなし、結局日本に帰り本にして売り出したのです。アジアに骨を埋める覚悟もありません。それでもやはり鴨さんは優しい人だったと思います。死んだ犬を抱え泣きながら歩いているおばはんに「ばかやろおおぉ、俺は犬でなくて自分の死んだ子どもを抱いてさまようおばさんを何度も見てきたんだ、だから日本人はなあぁ」と怒鳴り散らしたそうです。シリーズは5冊出るわけですが5冊目の「最後のアジアパー伝」には、彼は日本に帰ってけしてディズニーランドには行こうとしなかったとあります。道にコロガされた子供の死体を思うと行けなかったのです。そんな強烈な現実を日本でも忘れることはできなかったのす。忘れればいいのです。本もそこそこ売れたのだし、サイバラと組んでもっと売り出せばよかったのです。世の大半の文筆家はそうしています。やっぱアジアのパーでした。
 鴨ちゃんはそれができない「弱い」男でした。目の前に投げ出された人間存在におびえ惑う日々でした。そんな優しさは直感的に著作から感じます。やはり戦場などに行くべき人ではなかったのです。サイバラもそれはよく分かっていたのでしょう。どうしようもない男だと思いながら最後まで寄り添い、ちゃんと骨を拾ってくれたサイバラ、「はちきん」は男を手玉にとるくせに情が深いのです。はちきんは実は「にきん」、品のない落ちで終わりとします。

★ 「アジアパー伝」(講談社文庫) 鴨志田穣 西原理恵子 著 

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2009.12.26 / Top↑

★ 敬愛する宮沢賢治(1896年~1933年)、詩人、童話作家、自然科学者、農業指導者、そして熱心な日蓮宗徒、37年の短い生涯を文字どおり全力で駆け抜けました。珠玉の童話ばかりですが「よだかの星」は特に好きです。彼の生命観、自然観がよく出ていると思います。今なお色あせぬ美しい文章です。生前、作品が世に出ることはほとんどありませんでした。長生きすればもっとすばらしい作品を生んだとも思います。けれど大好きな彼の言葉のように、彼の生涯はあれで完結していたのです。
 「永遠の未完成 それが完成だ」

★ 「よだかの星」 青空文庫から原文の引用を交えます 原文は茶色ですYodakanohoshi_2 

 よだかは、実にみにくい鳥です。顔は、ところどころ、味噌をつけたようにまだらで、くちばしは、ひらたくて、耳までさけています。足は、まるでよぼよぼで、一間とも歩けません。ほかの鳥は、もう、よだかの顔を見ただけでも、いやになってしまうという工合でした。ひばりも小さな鳥たちもバカにして寄りつきません。よだかは鷹の仲間ではなく、美しいカワセミや蜂すずめの仲間です
 本物の鷹は「よだか」という名前をいやがりよだかに改名を迫ります。誇り高き鳥の王者はこんなみすぼらしい鳥が「鷹」を名乗ることが許せません。「市蔵」と改名し、その名札を首にさげ鳥みんなにあいさつ回りをしてこい、そうしないと殺すと、無理難題をふっかけます。よだかは悲しみます。なぜ僕はみんなにいやがられるのだろう。僕はなにも悪いことはしていないのに。首に名札をつけあいさつ回りなど恥ずかしくてできないよ。
 苦しみながらよだかは「雲が意地悪く光って、低くたれて」いるなかをぼう然と飛んでいます。でも食べなければなりません。羽虫やカブトムシをエサとして食べました。
 「また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう)」

 よだかは弟のカワセミにどうしてもとらなければならない時のほかはいたずらにお魚を取ったりしないようにして呉れ。ね、さよならと言い残し遠いところへ飛び立つ決心をしました。
 お日様やオリオン座の星に「あなたのところへ連れて行ってください」と頼みますがてんで相手にされません。おおいぬ座や大熊星もバカにして鼻で笑います。一旦地面に落ちたよだかに、突然異様な力がみなぎります。「のろし」のように空へ飛び上がり、毛を逆立て天を目指します。決死の飛翔でした。 
 「寒さにいきはむねに白く凍りました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。
 それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺しました。よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。そうです。これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらってお
りました。
 それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
 すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
 そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
 今でもまだ燃えています」

★ 石くれの夢 石くれのあこがれ 

 現在の「いじめ」の問題でもあるでしょう。ちょっとした人との違いを酷く責め上げ、よってたかってバカにする。「みにくいアヒルの子」はアヒルの仲間では「醜かった」かも知れませんが本当は白鳥でした。よだかはそのような救いもありません。自らを卑下し、逃れようとします。そしてぼう然と空を飛びながら羽虫やカブトムシを平然と食べている自分に愕然とします。弱い自分もこうやってほかの弱い命を食べている。そして自分も強い鷹に殺される。それは命の宿命、「原罪」という言葉を使うならまさしく原罪です。熱心な仏教徒であり、農業指導者であった賢治は命の循環、殺し合う命の宿命を肌で感じていたのでしょう。誤解があれば訂正しますがキリスト教は人間と動物を峻別しているような気がします。人間以外の自然は当初から征服の対象であったように思います。中東の過酷な砂漠地帯で生まれた宗教と、温順な照葉樹林帯で自然と共存して生まれた宗教の違いなのでしょう。もちろんどちらが優れているなどと言っているのではありません。
 その宿命をどう生きるか。よだかは争うことなく僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。…いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう」と考えます。そうすればバカにされる自分を救うこともできます。はっきり言えば逃避です。生きる戦いからの離脱です。しかしもう一つ探ると賢治の永遠のテーマであった自己犠牲にたどり着きます。「原罪」はその名の通り逃れ得ぬ根源的な「罪」、存在そのものの「罪」、逃れるには存在を滅ぼすしかない。よだかは他を殺すより自らを殺す道を選んだのです。それが是であるか非であるか、客観的な評価はほとんど意味がないのでしょう。その人にとり是であるか非であるか、それがいつも人間個人にとっては大問題です。賢治は「よだかの星」を書く前に「生物のからだを食うのをやめました」とベジタリアンになっています。賢治一人がベジタリアンになったところで命の循環には何の影響もありません。ただ賢治の生き方の問題です。
 彼は幼い頃から病弱で長生きはできないと悟っていたようです。生きる間、彼は精一杯、農民のために働きました。しかし心の底にはどうしようもない虚無が宿っていたように思います。心は常に
燐の火のような青い美しい光になることをむしろ願っていたような気もします。それは若くして亡くなった妹トシへの異常とも思える執着にも現れています。生き急ぎ、そして死に急ぎました。
 星にならずとも地上の石くれとしてしぶとく生きる、当然そのような生き方もあり、わたしを初めたいていの人はそうなのだと思います。星になるには異常な努力を要することを本能的に知っているからかも知れません。よだかのように息を凍らせ羽を力一杯動かし、しびれさせ、凍らせ、涙あふれる努力を要するのです。太陽や星に連れて行ってくれと願ってもダメです。自力で飛び続け星になるしかありません。

 しかし石くれも夢は見ます。毎日ほかの石くれと接触し削られ、時には割られしながら生きる石くれ、ふと空を見上げると青い美しい光の星が燃えています。永遠の夢、永遠のあこがれ、それを持つことは石くれの密かな慰めです。そして懸命に生死をくぐった「よだか」と賢治を讃える気持ちはなくしていません。

 「よだかの星」 (日本童話名作選) 宮沢賢治 著

2009.12.24 / Top↑
★ 12月12日、田口タキさんが本年6月亡くなられていたことを知りました。お名前は知っていましたが驚きました。まだご存命だったのですね。享年102歳、彼女はわずか29歳で特高に虐殺された小林多喜二の恋人でした。多喜二の優に3倍以上生きられたわけです。人間の運命とは切ないものです。わたしもタキさんに関しては、あの世とやらがあればと痛切に思います.。積もる話は尽きないことでしょう。
 最近、「蟹工船」が150万部を越すベストセラーになり映画にもなりました。現在のむき出しの資本主義の苛烈さが彼の作品に向かわせたのでしょう。銀行員の執筆とはとても思えないリアルで臨場感あふれる物語です。プロレタリア文学としてでなく日本文学の傑作です。世界各国でも翻訳されています。多喜二の迸る熱情を全身に浴びるようです。作品の背景に多喜二の痛切な愛が秘められていました。
 最近のニュースで量販店から米二袋(10キロを二つ!)を盗んだ無職男性二人の記事がありました。一人は「母に米を食べさせたかった」そうです。泣けます。以前は考えられなかったことです。日本は想像以上に貧富の二極分化が進んでいるのだと思います。多喜二が闘い、殺されたような時代がけして再びこないことを!

★ 闇があるから光がある200pxtakiji_kobayashi_2  
  
 多喜二がタキさんに送った手紙の一節は有名です。
 「闇があるから光がある。闇から出てきた人こそ一番本当に光のありがたさが分かるんだ。いつかこの愛で完全にタキちゃんを救ってみせる」
 何という純情でしょう。けれど、女性がこう言われたら、半ば怖いのではないでしょうか。タキさんは一時同棲しますが、結局身をひきます。「救ってみせる」、なまじの男の言葉であれば傲慢極まりないです。けれど多喜二の行動はけして言葉を裏切るものではありませんでした。
 小林多喜二は1903年(明治36年)秋田県現大館市に生まれますが、4歳の時北海道小樽に一家で移住し、東京に出るまでは小樽を拠点とします。家は貧しく苦労して小樽高等商業学校卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤めます。一応いわゆるエリートコースに乗っていたわけですが、在学時から社会に目を向け、文学、社会科学に開眼していました。穏やかで明るい人柄でした。拓銀勤務中に5歳年下の田口タキと知り合います。
 田口タキは不運な女性でした。父の事業の失敗により函館へ逃げ、父はタキを室蘭の酒屋に売ります。父は日雇いをやっていたのですが自殺します。タキは何と10人兄妹の長女、一家の大黒柱とならざるを得ませんでした。その後小樽の小料理屋に転売されます。「転売」です。この頃身売りは公然と行われていました。ただ働くのではなく前借り金で縛られ、やめることはけしてできませんでした。小料理屋の酌婦となったタキ、酌婦は売春もさせられたのです。多喜二と知り合ったときまだ17歳、多喜二は夢中になります。(後の2.26は身売りするような民衆の惨状を救おうとした青年将校の決起でした)
 手紙を何本も書き、真剣にタキの身請けを考えます。そして当時のカネで500円、現在なら数百万円を借金し、多喜二はタキを本当に苦界から「救い」ました。就職してすぐの多喜二には重い負担でした。しばらく多喜二とタキは同棲しますが、結局タキは身を引きます。多喜二はタキに啄木歌集などを与え、読むように進めています。熱烈に愛してくれていることはタキもよくわかっていましたが、無教養の身を恥じ多喜二の負担になることを恐れ、兄妹もいるため泣く泣く身を引いたのです。多喜二の脇目もふらぬ思いはきっとタキには重すぎたのでしょう。
 多喜二はタキを追うこともなく以後創作にのめり込みます。口にはあまり出しませんでしたが深く傷ついていました。結局はタキを救えなかったおのれを責め創作にあふれる思いをぶつけました。「一九二八年三月十五日」、「蟹工船」、「不在地主」などプロレタリア文学最高峰の作品を残します。これが原因で拓殖銀行は解雇され上京します。以後彼は非合法の地下活動も辞さない活動家としてその死まで全力で駆け抜けます。タキもその後上京しています。多喜二は結婚を申し込みますが、以前と同じくタキは身を切られる思いながら断っています。
 そして1933年(昭和8年)2月、特高スパイの手引きにより、築地警察署特高に逮捕され、その日のうちに虐殺されます(特高の名前はすべてわかっています)。酷寒のなか丸裸にされ、棒で殴る蹴るの徹底したリンチを受け、下半身は赤黒く腫れ上がり無惨な姿で息を引き取ります。最後までけして同志のことは口を割りませんでした。彼が何をしたというのでしょうか。暴力国家を心から憎みます。警察発表「心臓マヒ」の一言で、不審を抱いた同志の解剖要求を引き受ける病院はどこもありませんでした。「国賊」は人間ではありません。弱冠29歳でした。

★ 多喜二の愛 タキさんの愛B59ef7bc247a4fbe991b2fc72aadc2d3_2    

 多喜二にとり「社会革命」とは観念ではなくタキのような女性を救う、このような不条理をなくすという具体的イメージでした。タキに対する言動が彼の人となりを最も雄弁に物語っています。これほど純粋な男女愛もあったのだと今更ながら驚きます。「国賊」、「アカ」と蛇蝎のように嫌われた多喜二の真骨頂です。
 タキさんは多喜二の思想を理解することはなかったと思います。多喜二も無理に思想を押しつけることはありませんでした。半ば死さえ覚悟していた多喜二は無理に結婚してタキさんに累の及ぶのを最も恐れていました。お互い相手を真に思い、負担になることを避けたのです。多喜二は結局最愛の女性も救えなかった(救っていたのですが)、その自責が修行僧のように社会変革の活動にのめり込ませたのだと思います。
 タキさんはずっと後、結婚し子供もでき幸せに暮らしました。戦後、作家や文芸評論家は多喜二のことを聞こうと様々に接触を図るのですが、タキさんは一切を拒否しけして表には出ませんでした。多額の借金までして苦界から救ってくれた多喜二、求めながら断られると潔く身を引いた多喜二をタキさんがどれだけ慕っていたか、その思いは人に語ればおかしなものになるときっと思っていたのでしょう(割と早くにご主人を亡くされています)。多喜二の死後80年近く、タキさんはその思いを大切に秘め生きる支えとしました。時代の暴虐は二人の愛を引き裂きさきましたが、多喜二の多くの手紙やタキを描いた「瀧子もの」と呼ばれる作品として永遠に残ります。

★ タキさんと多喜二の母 「神さまってかたが、わかったような気がしたの」

 タキさんは多喜二の葬儀にも出席しました。当時は葬儀に出ただけで拘束されかねない状況でした。タキさんは当時の5円を香典に包んでいるそうです。兄妹を抱え、貧しい彼女には驚くほどの大金です。そして多喜二の亡きがらを同志が囲む有名な写真がありますが、障子の外にうっすらと女性の顔が浮かんでいます。これを心霊写真のように言うくだらない話がありますが、この女性がタキさんだと思います。多喜二に思い切りすがりつきたかったでしょう。実らなかった愛を確かめたかったでしょう。けれどただ障子の陰に控えていました。人間の真の優しさとは闘うことだ、思想とは具体的な愛だ、あふれ落ちる涙とともに多喜二の言葉を噛みしめていたのだと思います。
※ その写真は下にリンクしています。多喜二は布団にくるまれ、けして陰惨な写真ではありません。タキさんは左の障子の後です。まあ、楽しい写真ではありませんので見たい方だけどうぞです。

 最後に多喜二の母の言葉です。多喜二は地下活動のなかでも母に送金し、安否を気遣う優しい息子でした。絶命寸前、母にだけは死を伝えてほしいと苦しい息の下からもらしたそうです。漢字も読めなかった母ですが懸命に息子を理解しようとしました。
「私は小説をかくことが、あんなにおっかないことだとはおもってもみなかった。あの多喜二が小説書いて殺されるなんて…」。「朝に夕に、わだしのような母親に優しい声ばかけて、死ぬまで家族の生活費のことば心配してくれた多喜二が、あんな目にあわんでもいいべ。いったい、誰が多喜二をあんな目にあわせていいと言ったのか、わだしは知りたかった。それが神さまだば、わだしは神さまなどいらない。絶対にいらない
 こう言っていた母でしたが、戦後苦しみのなかでクリスチャンとなり同時に共産党にも入党します。思想的にはあり得ないですが母の心情はよくわかります。母は素朴に神をこう理解しました。共産主義者だった多喜二もきっとそれは許したでしょう。
「神さまは、自分のたった一人の子供でさえ、十字架にかけられた。神さまだって、どんなに辛かったべな。そん時わだしは、なんかわからんが、神さまってかたが、わかったような気がしたの」              (引用は三浦綾子「母」より)
 人の救いのため十字架に架けられたキリストと多喜二を重ねていたのです。そう思うことで愛する息子の死をようやく受け入れることができました。それは息子は自分だけの息子ではない、悲しい民衆の息子であると悟ったときでした。
 母よ、あなたの最愛の息子は一本のペンに命をかけたのです。一字一句に命をかけていたのです。小賢しく言葉を弄する売文屋でなく本当の芸術家でした。命とひき換えの文学は今なお燦然と輝いています。神がキリストを捧げたように、あなたは愛する息子を捧げました。胸を張りあなたと息子を誇りに思ってください。確かに多喜二さんは「神の子」の一人でした。

2009.12.17 / Top↑

★ 前に「破獄」で記載しました吉村昭さんは好きな作家です。綿密な調査と資料に基づいた記録小説は簡潔な筆使いに人間の情念を込め、読ませます。今回は実話に基づいた「漂流」(映画化もされました)、民俗資料に基づいた「破船」です。「破船」は「豊かな」現代から見れば驚愕の世界ですが江戸時代、まちがいなく日本に存在していました。(宮本常一「私の日本地図」より)

★ 絶海の孤島12年のサバイバル41yezuvp64l__sl500_aa240_  

  「漂流」の主人公、長平にはかなり詳細な記録が残っています。絶海の孤島に12年間閉じこめられついに生還を果たした男の物語です。
 天明5年(1785年)土佐の船頭長平は米を運んだ船が嵐に遭い漂流の果て、今の鳥島に4人で流れ着きます。難破する船の描写は迫力があります。鳥島は江戸の南方はるか600キロの無人島です。活発な火山活動があり、川も水も耕地もない不毛の島でした。ただ驚くべき数のアホウドリが生息しています。4人はアホウドリのみで生きました。おもしろいほど捕まるのですが火はなく羽をむしって生食です。アホウドリは冬場だけしかいないことに気づき、せっせと干し肉作りに励み貯蔵します。水は雨水をアホウドリの卵の殻にうけて貯めました。こんな食生活で体を壊さないはずはありません。漂着後2年以内に長平をのぞき死んでしまいます。
 完全に一人になった長平の凄みはこれからです。栄養を考えそれから海草や魚も食べるようにして、運動にも励みました。動物的な感と本能が長平を支えました。しかしやはり全くの孤独は彼を苦しめます。衣服はぼろぼろ、アホウドリの羽をまといまさに妖怪の姿に変わります。潮流の関係で鳥島には難破船が多くたどり着きます。漂着後5年の間に、大阪と薩摩の船が漂着し仲間は10数名に増えました。鍋釜、大工道具なども増え火をおこすこともできるようになりました。焼いたアホウドリを食べた長平は感嘆の声を上げます。
 しかしふるさとに帰るメドはつきませんでした。増えた仲間も栄養失調や不安で3分の1は亡くなります。ここで長平たちは船を作り上げ生還することを考えます。ものすごい執念です。材料は難破船の木材、炉まで作って釘などを製造します。3年経ちついにつぎはぎだらけのボロ船が完成、島を脱出、八丈島までたどり着きます。遭難してから長平は13年経っていました。長平は土佐にようやく帰り着きます。

★ ホラーよりホラー 共に生き 共に腐り 共に死す 異形の村51debben0gl__sl500_aa240_

 「破船」は恐ろしくも悲しい物語です。「お船様」と呼ばれる伝承は能登半島などに実際存在しました。「食うためにのみ生きた」人間、否定も肯定もできない厳然たる事実です。
 伊作の村は貧しさにあえいでいました。海べりにへばりついたような小さな村で耕作はほとんどできずわずかな漁に頼っています。身売りは大事な収入源で娘が売られ、伊作の家では父までが3年の年季奉公に出ています。「食うこと」が人生のすべてでした。わずか9歳で伊作は一家の柱として頼られます。
 ある日伊作は「塩焼き」に誘われます。塩焼きは夜中中塩を煮て塩を精製するのですが隠れた大きな目的があります。火に誘われた船が浜に近づこうとすると暗礁に乗り上げ難破するのです。難破した船に村人は小舟で押し寄せ、船からあらゆる物資を奪います。生き残っている船員がいれば殺します。極貧の村は難破船を「お船様」と呼び貴重な宝船としていました。もちろん悪事であることは自覚していて「お船様」のことは村の厳重な秘密とされていました。
 ある年米俵を大量に積んだ船が難破、村人は驚喜します。白い米など何年も食べていません。そして幸運にも翌年も「お船様」が到来しました。村人はハイエナのように群がりますが、その船は不気味なものでした。船員は全員赤い着物、赤い足袋で死んでいるのです。赤い猿の面まであります。異様に思った村人たちも背に腹は代えられません。着物と足袋をはぎ取り村人に公平に分配します。
 悲劇の始まりでした。そのあと村人が次々に倒れていきます。赤い着物を着た死者たちはもがさ(天然痘)のため死亡した者を他村の者が船に乗せ流したものだったのです。欲のため死者の着物を着た村人が次々に死亡、生き残った者まで伝染を恐れ山に入ります。山には餓死しか待っていません。村人の大半はいなくなりました。伊作の母も山に入り一人になった伊作はただ父の帰りを待つだけになりました。

★ 簡潔にして喚起力あふれる筆致 修羅を生きぬく「人間獣」

 吉村昭の筆致はいつものように淡々と事実を書いていくだけです。無駄な形容も飾りもありません。けれど圧倒的に読者にはイメージが広がります。読者のイメージにまかせ、かえって迫力と怖さが広がります。「破船」は並みのホラー小説など及びもつかぬゾクゾクした肌触りです。
 芥川龍之介は街娼を見て、自殺直前の手記に「生きるためにのみ生きる」人間の悲しみを書きつづっています。「芸術至上主義」と言われた芥川ほど実は「芸術」に価値をおいていなかった作家はいないと思います。「生きるためにのみ生きる」街娼にとり「芸術」なぞ何の役にも立たぬことに彼は絶望していたのです。人間を信じようとした優しさが彼を殺しました。
 「生きるために生きる」。それは戦前までの圧倒的庶民にとり「食うために生きる」ことでした。近代の「人間性」のかけらもありません。モダンもポストモダンもへったくれもありません。「人間性」の虚飾をはぎ取ったむき出しの人間獣がそこにはうごめいています。生のアホウドリにむしゃぶりつく長平、塩焼きでおびき寄せた難破船に軍隊アリのように襲いかかる伊作たち、抜き身の人間のすごさです。特に伊作の村のような村は江戸時代など日本あちこちにあったと思います。間引きや姥捨て、子捨て、飢饉による大量餓死、飢饉時の人肉食が身近にあった時代です。餓死と常に隣り合わせの生活、善悪、美醜を超えとにかく生きねばならなかったのです。やはり現代はいいと思います。建前にしろ人間尊重の理念が生きています。人間が人間として生きることが尊いと一応言われる時代です。建前にいつかは現実が追いつく必要がありますが。
 人間獣はまた「獣」として徹底もできない悲しい存在です。長平は仲間ができたとき、ふるさとへ帰るという希望が再びわき上がり、仲間と艱難辛苦、船を作り上げます。信仰も彼を支えました。伊作は大半が滅んだ村で父の帰りを待ちわび、父の姿を感じたとき叫びます。船を作る長平には人間の感情、希望がよみがえり、父を呼ぶ伊作には人間最高の感情、愛がよみがえっていました。船を作る長平の不屈の意志には驚嘆します。「獣」はまたすばらしい人間存在でもあるわけです。人間の不条理・矛盾を吉村昭は過不足なく描ききっていると思います。もちろん、こんな要約ではとうてい作品の真価はわかりませんので、できたら一読されることをおすすめします。

★ 「漂流」 吉村昭 著 (新潮文庫)

★ 「破船」 吉村昭 著 (新潮文庫)

2009.12.12 / Top↑

 ヴィクトール・エミール・フランクルはオーストリアの精神医学者です。自らのアウシュビッツ収容所体験をもとに書いた「夜と霧」は英語版だけで900万部も売れ、60年にわたる世界的ベストセラーとして有名です。アウシュビッツ収容所という極限の体験で得た彼の救いの思想は人間の生きる意味、生きる勇気について深い示唆を与えます。若いとき読んで感動しましたが読み直してみて、大げさに言えば生きることのコペルニクス的転回さえ感じました。(日本では旧版が1956年初版。原典の改訂により2002年に新版が出ています。画像は旧版)。混迷と不安の現代、改めて彼の生きる哲学は注目に値すると思います。けして強制収容所についてだけの思想ではありません。人間が生きることに絶望したとき、いかに立ち直るか、いかに希望を生きるか、身にしみる思想が述べられています。

★ V・E・フランクルは1905年、オーストリア、ウイーンに生まれます。ウイーン大学でフロイトなどに学び、ウイーン大学精神科教授などを歴任します。おりからナチス台頭の時期でした。ユダヤ人であった彼は強制収容所に家族と共に送られます。両親、妻と二人の子供は収容所で亡くなり、彼一人、骨と皮になりながら辛うじて救出されるという凄絶な半生を送りました。彼の思想は収容所体験でますます深く人に訴えるものとなりました。「夜と霧」、「死と愛」、「生きる意味を求めて」、「それでも人生にイエスという」など多数の著作を残し、1997年、92歳で亡くなります。この記事では「夜と霧」を中心にします。

 生きる意味を問うなかれ 意味は自らが問われている519k62xtqhl__ss500_

  「夜と霧」旧版では強制収容所の説明、生々しい写真などが多数載せられ、その残酷さに目を覆いたくなったものです。新版では写真もなく政治的側面は極力省かれ、精神医学者フランクルの目で見た収容者の姿に絞ってあります。学者らしく客観的記述に徹しながら、ほとばしる人間フランクルの情感は深い感動を与えます。
 収容された人々をまず襲ったのはパニックでした。当然のことですが、やがてそのパニックでさえ甘いことに気づかされます。番号を入れ墨され番号で呼ばれる収容者、一日にパン一切れと水のようなスープだけ、気まぐれに殴打され、ある日突然ガス室に送られる、徹底的に人間としての尊厳は剥奪されます。
 やがて収容者は大多数が無感動、無関心のアパシー状態に陥ります。その傷は大きく解放後も生き残った収容者のほとんどは「喜び」、「幸せ」を忘れ、社会復帰は困難なものでした。旧版に載せられた針金のようにやせた収容者、丸太のように積み上げられた遺体など、「アウシュビッツ以後・以前」と言う言葉があるように人間存在の底知れぬ暗黒をアウシュビッツは示しています。
 フランクルはそのような人間を冷静に観察しています。収容者の多数はやはり徹底的に人間性を剥奪され、ただ死だけが救いの人間の残がいとなりました。
 しかしその中にも少数の人間は死に至るまで人間の尊厳を忘れず、収容所から見る落日の美しさに涙し、自らのなけなしのパンを隣人に与えることさえしました。フランクルは同じ人間のこの差はどこから生まれるのか考え抜きました。その差は一言で言えば内面の自由、すべてを削り取られた人間からも奪うことのできない内面の自由をその人が選び取ったか否かに尽きるとしています。最後、人間として踏みとどまらせたのは心身の「強さ」ではなく心の「豊かさ」だったのです。
 煉獄できたえられた彼の言葉を記載いたします。

 「生きる意味を問うことをやめ、生きる意味を外に求めることをやめなければならない。人生が逆にあなたに生きる意味を日々問いかけているのだ、あなたはその生きる意味に答えを提示しなければいけない。それも言葉を弄するのではなく具体的な行動によって
       ―「誰がために鐘は鳴る」がありました。鐘はわたしのために鳴っているのです。それに耳を澄まさせねばならない、わたしにとっては人生観のコペルニクス的転回でした。
 「強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分が待っていると、つねに思い出させることが重要だった」
 人間とは、人間とはなにかをつねに自分で決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」
 「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」
      ―生きることと苦、死は分かちがたい。その覚悟
 「人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに、全世界にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみをひきうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ
 「収容所では、『いまにみてろ、いつかきっと』とか『世が世なら、おれだって』と思っている人ほど、崩れやすかった」―運命を受け入れていないからだと思います。

 人生に対する態度はどんな絶望的状況でも創ることができる 

 フランクルは実存分析(ロゴセラピー)で知られています。(ロゴは意味ということです)。実存主義は一時世界を席巻しました。人間の生きる意味を問うものとして今でも十分有効であると思っています。難しいことではありません。「実存は本質に先立つ」というのがスローガンです。人間で言えば人間を抽象した人間の本質というものから人間を考えてきたのが従来の思想でした。実存主義は、人間の本質より個々の人間存在―実存が、人間にとり意味あることとしています。個々の人間は本質として抽象化できず誰とも取り替えのきかない絶対個人なのです。
 フランクルの実存分析は人にそれぞれの生きる意味を自覚させることを精神療法としています。アウシュビッツで彼が痛感したように人は生きる意味の喪失には耐えることができません。基本的な考え方は人はどのような状況でも意志の自由は持っている。人は生きる意味を強く求める。人の生きる意味は人それぞれ独自のものである、と言うことです。フランクルは人が人生を生きる態度を重視し、態度価値と名付けました。
 態度価値(ウイキペディアからの引用)―「自分に与えられた運命に対してどういう態度をとるか。それによって実現されてゆく価値のこと。運命のような「与えられたもの」に対してどういう態度をとりながら生きるかによって、その人の人生の真価がわかる。態度価値だけは、人がいかなる苦境に追い込まれ、さまざまな能力や可能性が奪われても、実現の可能性がたたれることはない。つまり、この価値をもってすれば、人は息を引き取るその瞬間まで、人生から意味が無くなることは無く、「人生の意味」は絶えず送り届けられ、発見され、実現されるのを待っている、ということになるのである」
 態度は極めて意志的なものです。態度を選び取ることが人をボロクズか人間かに分けました。フランクルはアウシュビッツの極限状態のなか態度価値を自ら創り上げ運命に抗した人を何人も見ています。彼自身もきっとそうだったのだと思います。 厳しいけれど人間はどのような状況でも、主体的に態度を選ぶことにより人生に意味を見いだし死の瞬間まで尊厳を保ち生きていけることを指し示したのです。これは人間にとり大きな福音と思います。生きる意味が客観的にあるわけではありません。それは自ら創り出すしかないのです。それが人の宿命です。
 「誰かが自分を待っている」、それはもちろん愛の別の表現です。家族はすべて亡くなりましたがフランクルにとり妻の笑顔を思い浮かべることは救いでした。そして、美とユーモア。幽鬼のような収容者が大地に沈む夕日を見て感嘆の声を上げます。「世界はなんて美しいのでしょう!」。ボロクズのように心身を貶められても、人間のみ人を愛し、ユーモアに笑い、そして美しい夕日に感動できるのです。

          ゆえに問うなかれ

         誰がために鐘は鳴ると

         そは汝がために鳴ればなり     ジョン・ダン

 「夜と霧」 V・E・フランクル 著(旧版)

2009.12.10 / Top↑

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