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※ すみません。コメントは承認制にいたしました。できるだけ速やかに承認するようにいたしますので。ご迷惑をおかけします。

★ インド付いているわけではないですが、ガンジーです。テレビ、「知ってるつもり!?」で紹介された貴重な映像があります。今回は映像を中心に行きたいと思います。
 ガンジーは今なおインドの国父です。誕生日は国の祝日であり、今回行ってインドの紙幣はみなガンジーの肖像であることに驚きました。有名なg0uDk4NXgVs[1]「非暴力・不服従」の闘いは、けして臆病者の闘いではありませんでした。わたしの若い頃の社会運動はえてして「暴力」を強調しました。そんな時代、ガンジーは軽視されたものです。だが結局「暴力」による社会変革は何を残したのでしょうか。「非暴力・不服従」による闘いが最も困難でかつ有効な闘いであることを今痛感します。ガンジーはアメリカの公民権活動家マーチン・ルーサー・キング博士にも大きな影響を与え、ついに博士は公民権法を獲得し、法的な黒人差別を撤廃しました。しかし、ご承知のように二人の最後は悲劇的なものです。銃撃により暗殺されています。二人ともそれは十分、覚悟していました。真に強く豊かな人格だったのだと思います。ちなみにキング博士の誕生日はアメリカで唯一、個人単独を記念した祝日になっています。
 
(動画は5部の長いものです。内、第3部と第4部の2部を掲載します。全編ごらんになりたい方は、リンク先のyou tubeから見ることができます。非常にいいものです)

★ 簡単な生涯 映像で見る闘い

 1869年、インドに生まれます。比較的裕福な家でした。カースト上も商人階級であるヴァイシャに属しています。恵まれていた彼は18歳でイギリスに留学します。法律を勉強し弁護士になった彼は、南アフリカにおもむき弁護士を開業しました。南アフリカには当時多くのインド人移民が住んでいました。そこで見た苛烈なインド人差別は彼の目を大きく開かせます。うまく立ち回ればどれほどの出世もできた彼ですが、インド移民のため何度も投獄されながら粘り強い闘いを続けます。大きな成果を上げ、1915年、22年ぶりにインドに帰りますが、故国の現実は南アフリカ以上に熾烈なものでした。彼はインド民衆の救いと解放のため一生を捧げる覚悟を決めます。イギリスは無抵抗の民衆に無差別発砲し1200人も一時に殺すほど暴虐を極めていました(アムリットサル事件)。ガンジーは深く考え、苦しみ、結論に達します。暴力で抵抗してもつぶされるだけ、世界史上初の成功した非暴力・不服従運動の始まりです。動画を見てください。糸車塩の行進などの創意あふれる闘いでインドを変えました。



(you tubeリンク先 
http://www.youtube.com/watch?v=d-vJ3OTzv9Q ) 

 1947年、ついにイギリスはインドから撤退せざるを得なくなります。ガンジーやインド民衆の粘り強い闘いの奇跡の勝利でした。前回記事のデリーのレッドフォートで初代首相ネルーが高らかに独立を宣言します。
 しかしこれは新たな苦難の始まりでした。ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立が深まり、血みどろの内戦が始まります。苦悩したガンジーは最後の手段として、和解を呼びかけ無期限断食を決行します。インドの民衆には深く訴えるものがありました。しかし、狂信的なヒンズー教徒により暗殺されます。



(you tubeリンク先 
http://www.youtube.com/watch?v=za5U040S7wg&feature=related ) 

★ 「目には目をでは世界は盲目になってしまう」 ガンジー 

 ガンジーの「望むなら私の身を二つに切りなさい。しかしインドは分裂してはならない」という言葉は実に痛ましいです。実際彼の精神と肉体は二つに切られましたが、インドは分裂します。
 そして彼はカースト以下の「不可触賤民」を神の子と呼び差別をなくすことを訴えたのも高く評価されます。アンタッチャブルとよばれるこの階層は文字通り、触れることさえ忌み嫌われる階層でした。水場にも近寄れず、同席も拒まれました。インドは何千年もこの差別を温存してきたのです。現在法律的には禁止されていますが、今なお社会の奥深く巣くっています。インドがこれから世界に羽ばたこうとすればまず克服すべき課題だと思います。
 動画の最後にキング博士と黒人女性、ローザ・パークスさんが出てきます。彼女こそ歴史的な闘いの火付け役でした。バスの白人席に疲れて座っていて立つことを要求されますが、拒否します。このようにまだほんの半世紀前の当時、黒人差別は強烈なものでした。あらゆる機会に黒人は差別され、凄絶なリンチで何人も命を落としました。ビリー・ホリディの歌に「奇妙な果実」というのがありますが、木につるされた黒人の遺体を歌ったものです。木につるし火をつけるという蛮行がしばしば見られました。ローザさんの静かな決然とした勇気は黒人を奮い立たせ、ついにバス乗車ボイコット運動が広く行われ、公民権運動が燃え上がることになります。彼女を支援したキング博士はガンジーに習い、けして暴力は用いませんでした。しかし、敢然と不服従の闘いを敢行し、長い闘いの末公民権法を勝ち取ります。暴力で闘っていたら、これ幸いにつぶされていたでしょう。
 外にはインド独立、うちには差別撤廃の闘いを深い思索のもと実行したガンジー、黒人問題にも言えることですが、建前としては解放されても社会に長年巣くった意識が本当に変わり解決されるのは、これからも長い時間がかかると思います。ガンジーが指し示した道は今後も解決の大きな原則になることは間違いないと思います。
 現実にはガンジーの弟子と言われたネルー首相も、ガンジーの考えに反し、経済発展の道を進み、パキスタンとは何度も熾烈な戦争を戦いました。東洋的な寛容で禁欲的な生き方を示したガンジーの思想は、現実には理想論と片づけられることが多いのです。彼は政治家ではなくあくまで思想家だったのでしょう。だからこそ彼の精神は不滅だと思います。彼の彼岸はいつか立ち返るべき魂の彼岸のような気がします。
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2010.04.02 / Top↑

★ 政権交代が確実になったようですね。色んな方がいらっしゃいますので、評価は抜きにして客観的事実のみを書きます。

 111 過去、日本では衆院選挙による政権交代が3度ありました。
① 1924年(大正13年)、憲政会等の護憲3派は与党政友会を衆院選で圧倒。政権交代します。しかし女性には選挙権がなく、高額納税者のみの選挙権でありちょっと現代とは比較のしようがありません。
 1947年(昭和22年)、社会党は衆院選で比較第一党になります。与党との差はわずかで、3党による片山保革連立政権を成立させます。しかし保革連立等の理由でまとまらず1年足らずで崩壊します。このころは今の自民党は自由党と民主党に分裂していました。
 1993年(平成5年)、自民党は過半数に届きませんでした。自民党からの離党者が相次ぎ新生党を結成、日本新党等と8党・会派による細川政権を成立させます。8党もの連立で足並みは乱れ、わずか8ヶ月で崩壊します。

 以上のように、いずれも単独で過半数をとった事例はありません。選挙後も連立でそれも呉越同舟のような例もあります。今回のように単独で野党が圧倒的多数を獲得して政権交代したことは、1890年(明治23年)の旧帝国憲法発布後、一度もありません。今回はまさに日本史上初のことです。100年以上かかったのです。
 これからはわたしの思いです。アメリカやイギリスのように時の政権が誤っていれば政権交代をする。このルールの定着が民主主義を実質保証するものだと考えています。その緊張感が、政党により良い政治を目指させると思っています。絶対的な権力は絶対的に腐敗するという言葉は真理だと思います。今回もおかしくなれば変えればいいのです。自分の1票が死に票にならず、政治は変えられる、この確信がどれほど国民を勇気づけることでしょう。独裁国家でない限り政権交代は世界の常識です。欧米、韓国、台湾等々すべてそうです、それがないのは日本くらいでした。ただ米英のように二大政党制がすべてで、少数野党は存在意義がないとは思いません。この数年、「構造改革」の名のもとに、職を求める人が町にあふれ、自殺者が異常に増加しました。国民一人一人が幸せを実感する政治を切に望みます。

※ この記事にコメントは結構です。

2009.08.31 / Top↑

 「日本のいちばん長い日」言うまでもなく、昭和20年8月15日です。玉音放送により全国民に終戦が告げられました。同名の映画があります。驚きました。作られてもう40年以上も経つのですね。モノクロで描かれた男どもの血気と無念の物語。大評判になりましたがわたしも文字どおり手に汗握って見たものです。終戦を認められない陸軍将校がクーデターを計画、玉音放送の録音盤を奪取し、要人を逮捕、戦争継続をもくろんだ史実に忠実に作られています。あのまま3ヶ月も戦争継続していれば日本人に千万人を越す犠牲者が出ていたでしょう。九州人のわたしは存在していない可能性が大きいです。そして恐らく分断国家となりそれは今も続いていたかも知れません。
 玉音放送を中心に時間を追ってドキュメントとしました。

★ 映画「日本のいちばん長い日」予告編(2分46秒)

 若い三船敏郎、加山雄三などなど、その他豪華スターのオンパレードです。わずか半世紀ほど前、男どもはかくも熱く、アホウで、一途であったのです。女性は一声だけの新珠三千代さんのみという、男の熱気でむせかえるような映画でした。
 東郷茂徳外相の「勝つか負けるか、もはや問題ではない。日本国民を生かすか殺すか、二つに一つだ」という言葉は印象的です。狂気の嵐の中、正気を保つことは困難を極めたと思います。

※ ページを軽くするためリンクにしています。下をクリックしてください。

http://www.youtube.com/watch?v=s4TELOISlGA&feature=player_embedded

●8月10日 午前0時~

 宮城地下防空壕で行われた御前会議でポツダム宣言受諾が決定され、早朝中立国を通じて連合国に連絡する。

●8月12日 午前0時過ぎ

 連合国の回答がサンフランシスコ放送により放送される。「国体護持」(天皇制維持)の日本要求に対し、放送は「天皇…は連合国最高司令官に従うもの (subject to) とする」と伝える。この「subject to」の解釈が外務省と陸軍で相違した。外務省は「制限の下に置かれると」とし、陸軍は「隷属する」と解釈し、終戦に反対する声が一気に高まった。

●8月13日 午前9時過ぎ~

 最高指導者会議は紛糾した。阿南惟幾(これちか)陸軍大臣は強硬に宣言受諾に反対したがついに、午後3時、会議として受諾を決定。

●8月14日 午前10時30分~

 再度御前会議が招集される。天皇の「聖断」により受諾が最終決定される。この頃陸軍省の竹下正彦中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐らはクーデター計画を密かに練っていた。玉音放送の録音が宮城内で行われ録音盤は金庫にしまわれる。

●8月15日 午前1時~

 畑中少佐、上原重太郎大尉が近衛師団長森赳(たけし)中将に近衛師団の決起を促す。森中将、断固として拒否したため殺害される。死体をゴミ焼却場に隠したのち、近衛師団の古賀秀正少佐は偽の師団長命令で近衛師団を動かす。近衛師団は宮城に出動、これを制圧する。必死に録音盤を捜すが見つからない。井田正孝中佐は関東を管轄する東部軍司令部へ赴き、田中静壱東部軍司令官に決起への参加を求めた。田中司令官はこれに従わず、やがて近衛師団長命令も偽であることが見破られ、東部軍はクーデター鎮圧に出動することになる。

●同日 午前4時半過ぎ~Flow_041_2

 陸軍将校たちと別個の動きとして、佐々木武雄陸軍大尉をリーダーとして横浜高等工業学校の生徒達40数名によって編成された「国民神風隊」が、首相官邸を襲撃するが鈴木首相は危うく難を逃れる。首相官邸や他の大臣官邸にも放火する。

●同日 午前6時過ぎ

 決起を知った天皇は鎮圧の意思を示す。また東部軍の出動により、クーデターは一気に終息に向かうことになる。この頃阿南陸軍大臣は官邸で割腹自決する。午前8時過ぎには宮城内の近衛師団も撤退する。竹下中佐はなおも偽の陸軍大臣命令で軍を動かそうとする。

●同日 午前11時過ぎ

 最後まで抗戦をあきらめきれなかった椎崎中佐と畑中中佐は決起を促すビラを宮城付近でまいた後、自決して果てる。映画でもこれ以上の行動は「未練である」と言われ男泣きする中佐たちが哀れです。

●同日 正午 

 玉音放送始まる。古賀中佐は放送中に、殺害された森師団長の骨箱の前で自決する。

●8月16日

 特攻隊の生みの親と言われた大西瀧治郎海軍中将が介錯なしで割腹自決。

●8月17日~

 終戦に納得できない岡島哲少佐率いる水戸教導航空通信師団は上京し、上野公園を占拠し立てこもる。不利なことを悟り、19日には撤収し水戸に帰るが、岡島少佐はじめ主導した多数の将校が自決する。

●8月24日

 クーデター鎮圧の功労者、田中東部軍司令官が自決する。

 延々とした死の行列をこれ以上書くに忍びません。
 玉音放送後、自ら特攻機に乗り攻撃に向かった宇垣纏(まとめ)中将。夫婦で自決した杉山元(はじめ)元帥。放送後も徹底抗戦を唱え反乱を起こした霞ヶ浦航空隊、厚木航空隊。愛宕山に12名で立てこもり後、自爆した女性を含めた尊攘同志会。大東塾関係者14名、明朗会12名の集団割腹。島根県庁を焼き討ちした皇国義勇軍等々、軍人、民間を問わず反抗・自決が続発しました。
 まさに終戦は紙一重のきわどい差で実現されました。

 わたしはもちろん、決起・自決した軍人・民間人たちを賞賛しているわけではありません。戦争は絶対に反対です。最大最悪の犯罪だと思っています。戦争を後方で指導し、他人を数多く戦場に追いやり死なせながら、戦後はほおかむりしてのほほんと暮らし、栄達を極めた者も少なくないことに嫌悪を覚えます。決起・自決した軍人たちは負の形であれ少なくとも戦争の責任は自覚していたと思います。軍民合わせ310万の日本人が死んでいるのです。このまま終戦であれば死んだ同胞に申し訳ないという気持ちだったと思います。だがそれは明らかに間違っていました。あの時期、戦争を一日延ばすごとに毎日、数万の国民が死んでいったでしょう。間違いであることも彼らは心の隅で自覚していたと思います。どうしようもないディレンマが狂気の行動をとらせた「要領の悪い」人たちであった、そう思っています。

★ 「日本のいちばん長い日」 半藤一利 著 (文春文庫)

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2009.08.14 / Top↑

★ 太平洋戦争は現在も様々な研究、評価がなされています。呼び名にしろ大東亜戦争、15年戦争等と呼ばれることもあります。軍人も様々でした。悪評高い将軍が多い中、「人間の責任」から逃げることなく、生き方を全うした二人の将軍について記事にします。映画等でご存じの方が多いと思います。あの戦争の評価は保留しますが、わたしはこの将軍たちの責任の取り方は見事だと思います。

★ 今村均(ひとし)陸軍大将

200pxhitoshi_imamura  今もなお「聖将」と呼ばれます。明治19年(1886年)仙台市に生まれます。彼は後に陸軍大学校を首席卒業の秀才ですが、中学は一般の新発田中学卒業です。陸軍の将官は陸軍幼年学校を卒業し士官学校に進む純粋培養が多い中、彼の履歴は幅広いものの見方を養ったと思います。結構文学青年でした。父が早く亡くなったため、経済的理由もあり、陸軍士官学校に進みます。おもしろいのは夜尿症が続き、青年期になっても、夜、ひんぱんにトイレに立つため士官学校授業中によく居眠りしていたそうです。彼の繊細というか神経質な面がでていると思います。それでも陸軍大学まで優秀な成績を修めました。

 戦争勃発時は第16軍司令官としてインドネシアのジャワ島を攻略します。わずか9日でオランダ・イギリス軍を降伏させます。ジャワ島軍政では善政を敷き島民にも評価されました。後のインドネシア大統領スカルノは彼をとても慕っていました。昭和17年11月にはニューブリテン島のラバウルに赴任します。ラバウルでは自ら先頭に立ち田畑を開墾し自給自足に努めます。南方諸島の兵士は大半が飢えに苦しみ、戦死より餓死が多かった中、ラバウルは終戦時まで一人の餓死者も出すことなく、日本軍が維持した希有の例となっています。これも深謀遠慮、何より無駄に人命を落とすことを嫌った彼の人柄を物語っています。

 敗戦により豪州軍により戦犯裁判を受けます。彼は責任はすべて自分にあると部下をかばい部下の裁判のため奔走します。死刑さえ考えられた中、住民の証言に助けられ禁固10年の判決を受けます。判決により1949年、東京の巣鴨拘置所に送られ刑に服することになります。彼の人間性が最も強く出るのが戦後の生き様です。彼は生死を共にした部下将兵が南方の極悪な環境のもと刑に服している中、自分だけ東京で服役することは納得できない、とマッカーサーに南方マヌス島刑務所への移送を強く直訴します。マッカーサーも「日本の武士道は生きていた」と感激し移送を許可します。マヌス島で彼を迎えた部下将兵は涙にむせびました。1953年マヌス島刑務所は閉鎖され巣鴨に全員が移送されます。1954年には満期を迎え出所します。彼は64歳になっていました。出所後も東京の自宅敷地の一角にわずか3畳の「謹慎室」を作り普段はそこで生活する一方、全国の遺族や困窮する部下を訪ね歩きました。恩給だけの質素な生活を送り数々の回想録を出版しますが印税はすべて遺族や部下に回します。1968年(昭和43年)82歳で死去しました。

★ 大西瀧治郎海軍中将

 鹿児島の知覧特攻平和会館に行かれたことがありますか。あの戦争にどのような立場を持つものもここにくれば言葉を失います。まだ少年の面影を残す多数の特攻隊員たちの顔写真が永遠の沈黙のなかに掲げられています。遺書は涙で読めません。航空機による特攻作戦だけでも6000名近い若者の命が失われました。特攻作戦の真実、隊員の素顔、Admiral_takijiro_onishi 書きたいことはたくさんありますが、様々な思いを断ち切り二十歳にもならぬ肉体と精神を爆裂弾として散華させた隊員たちには深い哀悼を捧げます。彼らは夢、疑問、怒り、恐れ、悲しみ、恩愛、あらゆるものを捨て去り、おのれの死は誰かを守ることになると必死に信じ死んでいったと思います。
 「終戦」が決定した8月15日夜、海軍将軍が渋谷の自宅官舎で割腹自決しました。大西瀧治郎海軍中将です。豪放磊落、直情径行、酒も強く数々の武勇伝を残しています。彼は「特攻作戦生みの親」とも呼ばれました。確かに彼は最後まで主戦派でした。「日本人2000万が特攻すれば戦争は勝つ」とむちゃくちゃな主張もしています。だが特攻作戦そのものは彼が生み出したものではないというのが現在定説になっています。有能な航空家でもあった彼は当初特攻には反対しています。陸海軍総力を上げた作戦が一中将だけの力でできるはずもありません。彼の主戦の背景は何百万の軍民を失い、特攻まで強行した戦争をこのまま敗戦で終わらせたら、失った命に申し訳ないと言うことだったと思います。

 15日夜彼は腹を切ります。壮烈な介錯なしの切腹でした。駆けつけた側近には「医師を呼ぶな」と治療を拒否し、10時間近く悶絶の苦しみのなかで死んでいきました。遺書に書いています。「特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす」。ここには「国体護持」や「神州不滅」等の軍人おきまりの語句はどこにもありません。ただただ特攻で死なせた若者への深い詫びだけが書き連ねてあります。また「わが声価は棺を覆うて定まらず。百年の後、また知己なからんとす」とも述べています。特攻作戦の生みの親と呼ばれたことに一言も反論せず、すべての責任を一身に受け、罰としてこの上ない痛苦の死を受け入れ孤独に死んでいきました。享年54歳でした。

★ 「天道 是か非か」

 戦争は究極の人間ドラマです。人間の真の姿があらわになるときです。日本軍の将軍も本当に様々です。安達二十三(はたぞう)中将は戦後南方の収容所で服役していましたが、部下のすべての裁判が終わり拘留もとけた時、静かに一人錆びたナイフで自決します。南方で地獄を強いた責任をとるためたとえ勝利しても自決するつもりであったとの遺書を残しています。大西中将もたとえ勝利しても自決の覚悟であったと言います。戦争への批判はもちろんわたしにありますが、人間として責任から逃れなかった今村大将たちを尊敬します。一方、前線で戦闘中の部下を置き去りにし逃亡した卑劣極まる将軍はいくらでもいます。そのような者に限り戦後は自衛隊などに入り国会議員になるなど、栄達を極めています。責任とは観念ではなく、人間への感受性であるとこれらの将軍たちを見て思います。一時、もてはやされたように世に生きるには「鈍感力」に限ります。中国史で清廉の士が窮死し、悪党が栄えるのを嘆いた「史記」の司馬遷は「天道 是か非か」と問いました。わたしは明らかに「天道は非である」と答えたいと思っています。一方、将軍たちのように「天道」を超えた人間も確かに存在しました。

★ 「責任―ラバウルの将軍 今村均」   角田房子 著

★ 「海軍中将 大西瀧治郎」         秋永芳郎 著

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2009.06.07 / Top↑

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