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  映画「剣岳 点の記」が公開されました。映画は見ていないですが原作は読みました。約100年前、地図の最後の空白点を埋めるため剣岳を目指した人々、前人未踏と思った剣岳頂上で見たものは?。すばらしい剣岳を大画面で見るだけでも価値があると思います。紹介したいのですが公開中ですので遠慮します。もう20年以上前になりますが日本の冒険家が厳冬のアラスカマッキンレーで消息をたちました。言うまでもなく人なっつこい笑顔で国民を魅了した植村直己です。

★ 追 記  妻 公子さん

 長くなるので彼の妻については書きませんでしたが、妻公子さん、誰が見ても彼にはもったいないかわいい賢婦人です。彼女は言っています「冒険家は最大のエゴイスト」。彼女はそれを覚悟の上で結婚し、彼を最大限援助しています。彼は北極の犬ぞりの上でも妻に手紙を書いています。いつでもどこでも手紙を欠かしたことはありません。それは出版されていますので興味ある方は読んでください(「植村直己 妻への手紙」 文春新書)。あまり丈夫でない公子さんのことを繰り返し心配し、読者を泣かせます。子供が母に甘えるように公子さんに甘えています。甘えを許した公子さん。夫の喜びが妻の喜びであった希有の例です。彼もマッキンレー後は堅実に日本で暮らす道を探っていました。必ず帰ってくるつもりであったことは言うまでもありません。お二人とも無念だったでしょう。お二人は夫婦愛の一つの形としてわたしは高く評価します。今時、はやらないのは十分わかっていますが。ちなみに彼は自分自身、冒険家と言ったことは一度もありません。素顔も鋼鉄の冒険家にはほど遠く、ぼくとつでシャイ、自分では”放浪家”と称しています。ただわたしも彼が結婚したのはまちがいであったと思います。山に対するときと裏腹に人生に対しては、彼のゆるみと甘えがあったのでしょう。彼も所詮弱い人間、それを一番知っていたのは公子さんです。

Imgp1237 ★ 生 涯 

 植村直己が亡くなってもう25年も経つのですね。時の流れに驚きます。彼は1941年(昭和16年)兵庫県の現豊岡市で農家の末っ子として生まれます。少年の頃から近くの山に登り始めました。1960年(昭和35年)、明治大学農学部に入学します。大学では登山部に属し、勉学そっちのけで登山に没頭します。海外の山にも夢をふくらませました。卒業しましたが就職に失敗、ここが彼の破天荒なところでしょうが、英語もろくにしゃべれないのに、アメリカへ行くことを思い立ちます。日本人の海外渡航はまだまだ厳しかった時代です。1964年、アルバイトのカネを頼りに渡米します。苦労して得た職も不法就労で摘発され、ほうほうのていで、今度はヨーロッパに。モンブラン単独登頂もクレパスに落ちて失敗、これまでの人生、落ちっぱなしです。
 1965年、明治大学のヒマラヤ、ゴジュンバ・カン遠征隊に参加、登頂します。それから彼の華麗な冒険が始まります。一覧表にしています。

 1966年―ヨーロッパ最高峰モンブラン、アフリカ最高峰キリマンジャロを単独登頂
 1968年―南米最高峰アコンカグア単独登頂、下山後アマゾン6000キロを筏下り
 1970年―日本山岳会遠征隊に加わり、日本人初の世界最高峰エベレスト登頂。またアラスカマッキンレー単独登頂、ついに世界初の五大陸最高峰登頂者となる
 ●1971年―エベレスト登頂国際隊に参加、各国の利害対立により登頂は失敗。以後彼は単独行動に徹し遠征隊に加わることはない。また山を離れ極地冒険を目指すことになる。同年、南極横断3000キロを実感するため、北海道稚内から鹿児島まで徒歩で縦断。51日で達成するので一日60キロを歩く驚異的な記録
 1976年―1年半かけた北極圏12000キロ、犬ぞり探検成功
 1978年―史上初の犬ぞりによる北極点単独踏破。グリーンランド縦断成功
 ●1980年―厳冬期エベレスト登頂隊失敗
 1982年―南極点単独踏破計画、フォークランド紛争により断念。二度の失敗は相当の打撃を与えた
 ●1984年―史上初の厳冬期マッキンレー単独登頂を目指す。登頂後、頂上付近で消息を絶つ

★ 登山に意味はない… 

 こうして振り返ってみると彼の壮絶な”冒険”人生に心打たれます。「史上初」がいくつあるでしょうか。彼自身は純粋に冒険を楽しむのが目的だったと思いますが、周囲はそれを許しません。スポンサーも次々とつき世界に名をはせると、「史上初」に追いまくられるようになります。人のやった冒険では、どんなにすごいことでも価値を認められなくなります。彼は辛かったと思います。彼自身も当初の目的を忘れていったのでしょう。彼は晩年二度、手ひどい失敗をやっています。それを取り返そうと周囲も彼自身も焦ったと思います。「史上初の厳冬期マッキンレー単独登頂」もなるべくしてなった”冒険”だと思います。こうして真の冒険家たちも、追い詰められ過去に多数が中途で命を落としています。
 1984年2月12日、彼は史上初の厳冬期マッキンレー単独登頂に成功します。ちょうど43歳の誕生日でした。しかし翌13日は連絡が取れなくなります。マッキンレーは6194メートルとヒマラヤ8000メートル峰に比べれば比較になりませんが、山は高さではありません。北極圏にも近い厳冬期のマッキンレーがどれほど厳しいか、それを彼は身をもって示しました。零下40度、風速50メートル、ささやかな人間の志を翻弄するには十分です。彼ほどの体力と意思がありながらそれに打ち勝つことはできませんでした。一瞬の烈風は簡単に人一人を吹きさらっていくでしょう。遺体発見はほぼ不可能です。マッキンレーを墓標に永遠に氷雪に閉ざされます。005

 彼は「冒険は無事に帰還してこそ冒険」と常に語っていました。本当にそうだと思います。だが誰が彼を無謀な冒険家として非難できるでしょうか。冬のマッキンレーで命をかけて戦う彼の姿が目に浮かびます。死後、父が「何の役にも立たないことに夢中になった息子にこんなに暖かくしてもらい申し訳ありません」と語っていますが痛ましい言葉です。父上、そうではありません。人間は「何の役にも立たない」ことに全霊をかけることのできる唯一の生き物なのです。直己さんはそれを身をもって世界に示してくれたのです。生きることの究極の意味と問われたらわたしは答えることはできません。それは山を登ることに究極の意味はないことに似ていると思います。ただ全霊で登る行為そのものが生きる意味だと、人は結果は知らず、何でもいい自分だけのマッキンレーを全霊で登ればよいのだと、直己さんは烈風吹きすさぶマッキンレーから教えてくれたのです。

★ 青春を山に賭けて     植村直己 著

 剣岳 点の記        新田次郎 著

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2009.06.29 / Top↑

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