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f0054029_18313013★ 青木繁、現代ではほとんど顧みられない画家だと思います。福岡県久留米市出身、高校の裏山に彼の歌碑がありました。毎年彼を偲ぶ供養が行われ、市内の石橋美術館(ブリジストン)には彼の代表作「海の幸」重要文化財)が常時展示してあり、特に親しみを感じる画家です。早すぎた死でした。満28歳、胸をかきむしる焦慮にせかされた放浪の中、誰に看取られることもなく亡くなります。1882年、明治15年生まれ、きっと生まれるのが早すぎたのでしょう。「海の幸」の赤銅色の男に混じって一人こちらを向いている白い顔の女性が描かれています。はかなげで美しいです。彼の恋人でした。しかし結局恋人も一粒種も捨てることになります。その子は後に尺八の名手福田蘭童として世に出ます。大半の読者の方はご存じないと思いますが、往年のNHKラジオ「笛吹童子」の主題歌を吹きました。今でもよく覚えています、午後6時、往年のガキ大将も、これが始まるとピタッとけんかをやめ家に帰りラジオ―テレビじゃござんせん―にかじりついたものです「ヒャラーリ ヒャラリーコ ヒャリーコ ヒャラリコ」。夜は母さん連中、「君の名は」にかじりつき、女湯はガラガラ、よか時代でした。(「笛吹童子」はその後テレビで人形劇とかありましたのでご存じの方も多いと思います)
 「芸術家の血」と、何かこけおどしのタイトルは蘭童の子が、これも過去の人になりましたが「ハナ肇とクレージーキャッツ」でとぼけた味を出していた石橋エータローであり、運命の糸は3人のアーチストを結んでいました。
 
(画像はクリックですべて拡大します)

★ 22歳での栄光 短い絶頂期 

 青木繁
は1882年(明治15年)、福岡県久留米市に生まれます。父は旧久留米藩(有馬藩)の侍で厳格な教育を受けます。厳格な教育はそれが崩れたときかえって収拾がつかなくなるものですが、彼を見ているとそれを強く感じます。小学生の同級生におおらかな馬の絵で知られる画家坂本繁二郎がいます、二人は無二の親友でありよきライバルでした。坂本は繁と違い、87歳の長寿を全うします。
 繁は絵だけでなく文学にも親しむ早熟な少年でした。絵にも文学性があふれています。中学を中退し、画家を目指し上京します。固い父は大反対でしたが。東京美術学校(後の東京芸術大学)に学び、同級生に熊谷守一がいます。在学中に新進画家として注目されます。
 
image002卒業後、恋人の福田たねなどと千葉県の海に遊び、大作「海の幸」を描き上げます。サメ漁を終わり獲物をかついで帰る男たちの褐色の裸身、後に繁はたねの顔を絵に描き加え、たねは永遠の形象として残ることになります。白馬会展に出品されたこの作品は大反響を呼びます。まだまだ西洋美術の模倣期、手探りの芸術家たちに圧倒的な海の男たちの存在感が強く印象つけられます。繁、若干22歳。しかし、繁の絶頂期は驚くほど短いものでした。「海の幸」が強烈すぎたのか、その後の作品の評価は厳しいものでした。古事記ファンであった繁は日本神話に題材をとりいくつも作品を出しますが展覧会ではふるい222px-Aoki_Shigeru_-_Paradise_Under_the_Seaませんでした(「わだつみのいろこの宮」―重要文化財、など)
 たねとの間に子供が生まれます。繁は海彦山彦から名を取り幸彦と名付けますがたねとは正式な結婚ではありません。幸彦が後の尺八家、福田蘭童です。
 繁には強烈な自負心がありました。中央画壇何するものぞ、言行は不遜で、それも画壇に嫌われたのでしょう。認められない焦りと貧乏から夜には刀を振り回し暴れることもあったと言います。若くして賞賛を浴びることは不幸に終わることが多いように思います。折しも故郷の父が亡くなります。彼はこれ幸いにか、たねと子を見捨て故郷に帰ります。しかし、逃げるように故郷を捨て、夢破れ帰郷した繁に親族は冷たいものでした。父の遺産相続の話も混乱し、繁はほとほといやになり、出奔します。それから佐賀や熊本、数少ない繁の理解者を頼って放浪することになります。時には画展で小金を得ることもありましたが、すぐに飲み上げ、使い切ってしまう始末です。結核の病を得てろくに療養もしなかった繁は担ぎ込まれた福岡の病院で一人死んでいきます。たねたちと別れ3年後、28歳の若さでした。
 繁に見捨てられたたねは実家に帰ります。実家は肩身の狭いものでした。当時のことであり、蘭童は戸籍上たねの末弟と言うことにされ、たねは身軽になって再婚し、蘭童は一人関東の親戚の家を転々とします。どれほど寂しかったでしょう、父もいないのです。たねが実母であることを知るのはずっとあとのことでした。蘭童は音楽の才に恵まれました。尺八に打ち込み多くの作曲も手がけています。そして遊び人です。釣りがうまく美食家で女性にもてました。映画音楽を手がけた際、女優を何とレイプし、のちに妻と別れ、その女優と結婚しています。
 その離縁された妻と蘭童の子が石橋エータローです。紛れもなく青木繁の孫です。妻も実家に帰るのですが子連れの出戻り、冷遇されました。エータローも音楽の才があり本格的にピアノも習い、進駐軍のクラブでジャズ演奏などしています。父の蘭童は死んだと聞かされて育ちますが後に再会します。「ハナ肇とクレージーキャッツ」に入りピアニストとして活躍しますが、後に退団、彼も美食家であり料理屋を開いています。

★ 3代にわたる芸術家の血 生き様  

 繁を含めた3代の男たちをざっと見てみました。つくづく人は子をなす限り何代も自分の生き様、血が子孫に影響することを思います。
 青木繁は確かに天才だと思います。題材も日本神話にとったものが多く後にも先にもあまり類を見ないものです。「海の幸」も神話的雰囲気に満ちています。西洋に追いつけ追い越せの当時の画壇にあり、初めてロマンチックな日本独自のテーマを見いだし、劇的なタッチで幻想の世界を描き上げました。「海の幸」は夏目漱石など当時の文化人も絶賛しています。しかし繁の性格にも原因があり画壇からは遠ざけられることになり、上昇欲に燃えていた彼を苦しめます。繁は最後まで再上京し名をあげることを夢見ていました。そのためにも故郷の「つまらない」事務処理をこなし地歩を固めるべきでしたがそれができなかったのです。何もかも放りなげ、ふらふらと放浪を始めます。おそらく繁の頭たねや蘭童のことがよぎるのはほとんどなかったと思います。最後の床で卵一つにも異常な執着を燃やす彼は哀れです。
 しかし、30にも満たない生涯でわずか数年に制作した彼の作品は不滅です。
一瞬の光芒は、「海の幸」のたねの顔を照らし続けています。aoki_02
 蘭童は不幸な子でした。けれどそれを跳ね返し図太くしたたかに生きぬきます。蘭童と言うより乱童です。彼もまた妻子を捨てたのは因果でしょうが、好きなことを好きなようにしています。釣り名人の彼の傑作はコンドーム擬似餌、よほどコンドームがあったのでしょう。コンドームを切り裂いて針につければいい具合に水中でひらひらし、魚が食いつくそうです。旅に出るときはえさに使うのか本来の用途か知りませんが大量のコンドームをバックに忍ばせていたとのこと、釣り好きの方はお試しあれ。ただし、奥方とのいかなる事態も当ブログは責任を持ちません(*^_^*)
 人生を開き直った蘭童ですが、思えば「笛吹童子」は幼い日の母への思慕に涙し尺八を吹く蘭童だったのかもです。今回聞いてみましたが懐かしさに体が震えます(^_^;)
 蘭童に捨てられたエータロー、最後は料理屋を開きますが屋号は「三漁洞」、これは父の蘭童の店の屋号を引き継いだものです「海釣り、川釣り、岡釣り」の三漁というふざけたもの。蘭童は岡釣り名人でもありましたが、エータローさんがそうかはよく知りません。(岡釣りのフカーイ意味(笑)、ご不明の方は辞書でどうぞです)
 身も心もおのれの業火で焼き尽くした青木繁でしたが、子や孫はその火をうまく制御し、受け継いだ芸術家の魂だけはちゃんと育て上げ、まあ、幸せに生きたように思います。 
 久留米はもともと保守的な土地柄でしたが、士族の出の繁が平民のたねを軽んじ、そして何よりも当時の女子供は一人前の人間と見ない思潮は強く感じます。また日本や中国など東アジアにしか見られない戸籍制度がいかに都合よく利用されたかもよくわかります。 

★ 「画家の後裔」 石橋エータロー 福田蘭童 著 (講談社文庫)
2010.04.13 / Top↑
51RZZR2GT7L★ うらやましい人というのがいます。まあ、人をうらやんでも仕方はないのですが、仙人画家熊谷守一さん、97歳で大往生されましたが、最後30年間ほど自宅を出ず―比喩ではなく、実際ほとんど出なかったそうです―密林のような庭で石ころや虫をじっと見続け、それで一日が過ぎることも何度もあったという浮世離れしたお人です。引きこもりといえば究極の引きこもり、けれど精神が豊かであればこんなにも満ち足りた生涯を送れるのです。お顔がすばらしい。もう年も性別も、いや人間すら超越しているようなご尊顔、どうしたらこんな顔になれるのでしょう。絵はご承知のように、一見、子供が書いたように単純明快、悠々として懐かしく気品があります。しかし、大原美術館で「陽の死んだ日」という絵を見たときは衝撃でした。熊谷さんにももちろん、激情も苦悩もありました。
(画像はクリックで拡大します)

★ 幼くして見た人間の裏側 

 まあ、どうして昔の金持ち男のやることは変わらないのでしょうか。熊谷守一さんは1880年(明治13年)岐阜県の今の中津川市に生まれます。父は岐阜市長、衆議院議員もした名士でしたが、ひどいオヤジでした。妻―守一さんの実母ですが―を見捨て岐阜市内に妾二人と生活しています。父はその家に守一さんだけ引き取ります。家には妾二人、その子供たち―異母兄弟に囲まれ、生活します。妾を「お母さん」と呼ばざるを得ない生活です。正妻の子と言うことで表向き立てられますが、実際はとても冷たいものでした。実母は風呂桶から水が漏るような貧しい生活、これは普通グレますね。だが守一さんはおとなしい子でした。しかし、ごく早い時期に大人の裏側を知り、人生こんなものという諦観をいだくことになります。じっと物事を観察するかわいげのない子供に育っていきます。こうして絵を描くことの好きな子が生まれました。
 20歳の時、東京美術学校(現東京芸術大学)に入学します。オヤジは実世界での出世を強く望んでいたのですが、それから逃げるように上京します。同級に夭折した天才画家、青木繁がいました。守一さんの才能は大きく開花し、同校を首席で卒業しまkuma16す。将来を属目された若手画家でした。文展に出品した「蝋燭」は高い評価を受けます。レンブラントばりの本格的油絵です。翌年、守一さんは轢死者を描いた絵を文展に出品しようとし拒否されます。「轢死者」などとんでもないと言うわけです。守一さんはひどく落胆しました。実母の死もあり、故郷へ帰り、6年間肉体労働や好きなことをして過ごします。後の彼の生き方、画風の原点だったと思います。世におもねり、名誉のために描くのではなく、好きなことをして好きな絵を描く。
 才能を惜しむ周囲の強い説得により再び上京しますが、定職は持たず、好きなときにぼちぼち絵を描く程度でした。貧乏で友人の援助とかにも頼ります。遅く42歳の時結婚し子供が次々にできます。売れる絵を描こうと思えばどれだけでも描けたでしょうが、精力的に描こうとしませんでした。貧乏生活は相変わらずです。妻は質屋通いを何度もしますが、守一さんは昼夜逆転で時計の分解などまともな生活からは遠いものでした。1928年(昭和3年)歳の次男、陽が肺炎で急死します。その後、3女も幼くしてなくし終戦直後には長女もなくしています。医者にかかるカネさえ乏しかったのです。
 戦後は東京豊島区の自宅をほとんど出ることはなく、雑草の生い茂った庭の虫や草花をながめ、絵に描き自由気ままに暮らします。徐々に名声も上がりパリで展覧会も開かれますが、守一さんは無頓着です。文化勲章授賞まで内定したのですが守一さんは、「これ以上人が来るようになっては困る」と辞退しています。同じく叙勲も辞退し生き方を貫きました。
 1977年(昭和52年)、肺炎のため97歳で逝去します。

★ 何のために絵を描く 悲痛な体験

 「三つ子の魂百まで」
はやはり真理だと思います。複雑な家庭で人間の裏表を幼くして知った守一さんは、生涯、熱狂とは遠い人でした。複雑ではあっても父は大資産家、金に糸目はつけず幼い頃から専属で女中がつくような生活でした。守一さんはカネや名誉のむなしさも幼な心に焼き付けたのでしょう。
 一方、貧乏人の子は貧乏を最も恐れます。何とかはい上がろうと脇目もふらず努力します。山村からのポット出であったわたしの父は、貧乏と学歴のなさの悲しみが身にしみていたのでしょう、わたしに幼い頃から「とにかくいい学校を出て、いい職につけ」と口を酸っぱくして言っていました。わたしはこれでも幼い頃はそれに懸命に応えようとする「いい子」であったのです(^_^;)。少年期にはそれに逆らいあえて「堕ちる」道を選んだ感がありますが、今は父の気持ちもよくわかります。日本の高度成長も田舎者の上昇意欲が原動力でした。
 守一さんの話でした(^_^;)。「名士」のくだらなさをよく知っていた守一さんは、あえてそれを遠ざける道を選んでいます。代償も大きいものでした。子供を次々に亡くし、妻に苦労をかけています。
 works_c3b_06次男、陽が亡くなったとき、激情に駆られ無意識に絵筆をとっていました。「陽の死んだ日」の絵は見るものを圧倒します。童画のような単純明快な守一さんの絵と思えない、激しくほとばしる筆のタッチ。守一さんは30分で我に返り「子供の死さえ絵にした」自分を激しく嫌悪します。画家の「業」なのでしょうか。いやそんな洒落た言葉を超えた人間としての嫌悪だと思います。二十歳そこそこで死んだ長女が黒板に書き付けた「南無阿弥陀仏」の字を生涯消さなかった逸話にも、守一さんの深い哀惜と悔いが表れています。絵や文学で人間の苦悩、悲哀を描いてそれが何になる、それで人間の悲しみはけして癒されはしない、そんな気持ちだったと思います。「蝋燭」の絵も厳しく8143_xl自分を見つめた優れた絵ですが、守一さんはそんな人間捜しに嫌気がさしたのでしょう。絵はただ好きなものを好きなように、気負わず描いていけばよい、印象派の、キュービズムの、そんな理屈付けはどうでもいい。それから猫や虫や野の草など身近な題材を自由に描くようになります。子供が虫に心を奪われ地面にスケッチすkuma24るようなものでした。玄人受けする絵を描こうと思えばどれだけでも描けたでしょうが。
 わたしたちはそんな守一さんの絵にとても懐かしいものを感じます。のんびり寝そべった猫、誰に育てられたのでもない野の花、懸命に地をはいずる蟻、守一さんの「仙人」の目はこの世の飾らない自然、美しさを描いています。「へたも絵のうち」、彼の言葉のように名誉のためでも名声のためでもなく描いた絵の原点がそこにあります。

「絵なんてものは、やっているときは結構難しいが、できあがったものは大概アホらしい。どんな価値があるのかと思います。しかし、人はその価値を信じようとする。あんなものを信じなければならぬとは、人間はかわいそうなものです」  熊谷守一

へたも絵のうち (平凡社ライブラリー)

へたも絵のうち (平凡社ライブラリー)
2010.04.05 / Top↑

★ 最近感銘を受けた二人の方

 以下、どちらも現在進行形のことですのでうかつなことは書けませんが、最近特に心に残り感銘を受けたことを、できるだけ事実に即し書いていきます。人の生死を軽々しく論ずべきでないことは承知していますが書かずにはおれませんでした。もちろんわたしの私感です。Images

 ある方のブログ。読むのがとても辛かったです。けれどその数百倍もご本人がお辛かったでしょう。勇気を振り絞り書かれたのだと思います。わたしも目をそむけるわけにはいきません。
 「試練」とか「精神力で何とか」という段階を超えています。もう言葉の問題ではないのでしょう。今までもそれに耐えぬきご家族にも言えなかったことを、ご家族にも知らせる目的もあり書いておられます。どれほどの苦難に耐えられたか察してあまりあります。しかしご本人はけして闘うことをあきらめず、今も最後の望みをかけ、か細い糸であってもそれを必死でたぐろうとされています。本当に尊いことだと思います。これほどの強さがわたしにあるだろうか、同じ立場であればわたしはどうするだろうか、胸を突き上げます。観念としてしか知らなかった人間の尊厳を本当に知る思いでした。奇跡など信じていなかったわたしも心から奇跡を願います。結果ではなく闘うことが尊いのだと心から悟りました。
 されど勝利を!!またおおらかに快活に生を謳歌されること心から祈ります。あなたの闘いに比べていかにわたしがのほほんと生きてきたか思い知らされます。あなたの勇気を心から讃えます。

 作家、多島斗志之(たじまとしゆき)氏が12月19日から失踪され現在まで行方不明です。けしてメジャーな作風ではありませんでしたが好きな作家でした。61歳、失明の危機を感じてのことだそうです。もちろん、それだけではないのでしょう。人にはわからない心の葛藤があったはずです。すべてを整理し家族にも遺書めいたものを残されており、覚悟の失踪です。今どうされているのでしょうか。憶測は厳に慎まねばなりませんが覚悟の自死の可能性も大きいです。しかも、象がその死に場所を隠し密かに生を終えると伝えられているように、多島氏は一切の自分を人知れず隠そうと思われている節もあります。
「この歳になっての両眼失明は、人の手助け無しには日常生活すら送れない。そういう状態で生きることを私は拒否する。視力が完全に失われる前に、すべてを整理して、自分の人生を終わりにすることにした。……いつかこういう日が来ることは何年も前から予測できていたので、すでに準備は整えてあった。ただし、場所も方法も知らせない。うまくゆけば、誰にも発見されないままになるだろう。もはやこの世にさほど未練はない。だから、悲しむべきことではない」
 もちろんご子息はじめご家族(奥さんはおられないです)はすぐに警察にも依頼され日本各地を懸命に捜してあります。ご家族は「完全失明と判断するのは尚早。とにかく医療機関で今一度診察を受けてほしい」と必死に訴えてあります。「人に負担をかけたくない」と言われる氏の気持ちもよくわかります。しかしご家族には現に大きな心配をかけられています。もちろん負担などというものでなく、居ても立ってもいられないご心境でしょう。それが家族というものだと思います。誇り高い氏は自力で生きていけないと思ったとき生を終わらす覚悟をされたのでしょう。安っぽい言葉ですが氏の「美学」だったのでしょう。言葉を換えれば傲慢といえるのかも知れません。人に頼って生きてよいではないか、所詮人間は一人では生きていけない、その考え方も当然あります。しかし、わたしは氏の考えも間違っているとは思いません。氏はその人生を自ら選択したのです。また、そのような考えは日頃接してあるご家族が重々承知してあったでしょう。それでもなおかつ懸命に捜してある、ご家族のためには消息が一日も早く分かればと、わたしも様々な思いです。

 多島氏は前記の方とまったく正反対の生き方です。矛盾していますがわたしは氏の書き置きにも深い感銘を受けました。お二人には強い人間の意志を感じます。なりゆきで生きていない自らの生を選び取る人生です。「十全に生きるか、十全に生を終えるか」、ひと言で言ってしまえばそのようなことです。前記の方は十全に生きぬくことを選択されました。万一どのような結果であろうとわたしは、この方の選択はとても尊いと思います。ほんとうに生を終えるまで100%意志を込め生ききられるわけです。いずれ遠い先にも生の終わりは来ますが、それまで精一杯生きる覚悟です。がんばれ、がんばれとわたしも心からエールを送ります。「十全に生きた」人はどのような結果であろうと「十全に生を終えられる」のです。けして無念の死ではありません。そしてそれを読んだ多くの方に心を突き上げるような感動と勇気を与えてくださいました。
 多島氏は「悲しむべきことではない」と書かれています。基本的な死生観が死は悲しむべきことではないということだったのでしょう。自然に帰る一つの過程と考えられていたのだと思います。もちろんご家族は悲しまないでいられるはずはありません。それも承知の上での「悲しむべきことではない」との言葉なのでしょう。氏はその風貌のように淡々と旅立った、そう思いたいです。されど、これも矛盾ですが、氏も完全に未練を断ち切れるはずはありません。自ら死を選ぶのが簡単なことであろうはずありません。そして自らの生すべてを捨て去り隠そうとした氏に潔さと共に、たまらない寂しさを感じます。もちろんご家族は痛恨の極みでしょう。
 されどなお、わたしは断言したいです。たとえ自ら選んだ終わりの結果であろうと氏は「十全に生き、十全に生を終えた」。今回、人間には結局二つしかないことを強く心に刻みました。よく生きるか よく死ぬか。

★ 「症例A」 多島斗志之 著(角川文庫)

※ 本年は長たらしい、重い記事にもおつきあいくださり本当にありがとうございました。皆さまにとり幸いの2010年であることを心から祈念いたします。

※ ガラリと変わりますが正月ですから、「ニャンクラ結婚行進曲」です。100匹ものネコを撮られたとのこと。鳴き声も実に絶妙、努力に心から敬意を表します。

 2010年、まもなく行進です[E:scissors]

2009.12.30 / Top↑

★ 右の画像、手オノを持ったブルドッグでも、金太郎Untitled_3 のな れの果てでもありません。キャ リー・ネイション(念のため、女性です)。アメリカ禁酒法の歴史に燦然と輝く金字塔。右に”手オノ”、左に聖書、酒場を奇襲攻撃、酒ビン、コップ、椅子テーブル、あたるを幸いバッシャーン、ガチャーンと粉砕し、アル中どもを震え上がらせ、かつ愛され、日本の騒音オバチャンなんぞ片腹痛い、スケール壮大、意図明白、かってのアメリカ名物、キャリーおばちゃん。彼女の名誉のためにひと言。”ブルドッグ”は彼女自身が言ったことです。自称「神のブルドッグ」、神様、ブルドッグが趣味とは知りませんでしたが、彼女は熱心なピューリタン、神の命令を忠実に実行しているブルドックを自認していたのです。

※ 全部読んでいただけば分かりますが、彼女を全否定するものでも「神」を揶揄するものでもありません。

★ お見事 「天誅!」人生

 彼女、1846年アメリカケンタッキー州の田舎で出生。本名キャリー・ムーア。父親アル中、母親、誇大妄想で自分をビクトリア女王と思いこんでいた。ここは同情。最初の結婚、旦那、とんでもないアル中、やがて離婚し、離婚後旦那は死去。父、夫と恨み重なるアルコール、ブルドック、ついに恐怖の目覚め。その後19歳年上の裕福な男と結婚、幸せを満喫していた…はず。ゆとりが出てくるといらぬことをしだすのか、禁酒婦人連盟支局を開設、禁酒運動に乗り出す。最初は大人しく請願運動や説教ですましていたものが「これじゃ効果あがらんわ」、神にすがりつく。そして1900年6月、ついに神の啓示。「何か持って、酒場という酒場に投げつけ、酒場を粉砕せよ」、まあムチャクチャな啓示。ヒステリー症の妄想とか、怖くてよう言わん。彼女それからカンザス州の酒場で実力行使。石ころふんだんに持ち込み「天誅~~~!」、あっちゃこっちゃ投げ放題。鏡割れるわ、酒ビン飛ぶわ、椅子はぶっ飛ぶ、酒場、ひっちゃかめっちゃか。酒場の酔っぱらいども、どうしたか。頭抱えてわれ先に逃げ出す始末。やっぱ度胸すえた女にゃ男よう勝たん。ブルドックに恥じず、彼女身長180センチ、体重90キロの女朝青龍、シェリフ4人がへっぴり腰でようやく取り押さえ。留置所でも賛美歌歌い、禁酒演説シェリフにぶち上げ、シェリフ、ほとほと降参。なんせ、飼い主、神様。ジハード(聖戦)に怖いものなぞありゃせんわ。
 M_17_2 真珠湾攻撃、見事な勝利。それからますますエスカレート。凶器も「手オノが一番きくわ」と恐怖の手オノ。子分のご婦人ども引き連れ無敵のオバン軍団。二つも機関誌発行、名前が「破壊者通信」「手オノ」、そして自宅が「手オノ堂」、ウソのようなほんとの話。1900年から死ぬ前年まで10年間、「天誅~~~!」、「天誅~~~!」と手オノで落花狼藉、何と30回も逮捕される。54歳から64歳までというから、その筋ガネ、おばちゃんのカガミ。彼女金もうけもうまい、手オノのミニチュア、名前入りで通信販売、これが大当たり、逮捕されても涼しい顔で罰金払う。そしておもしろいのがアメリカ社会、彼女の天誅!、進むにつれ、アメリカ中の人気者、酒場はむしろ襲撃を歓迎、その後「かのブルドック様ご破壊酒場」と看板上げれば大繁盛。店では手オノのミニチュアをいくつも買っておみやげに客に渡す。しまいにゃ、町上げてブルドック様誘致活動、ブルドッグ様おいでになるとパレード始まったと言うからどうなっとん。「キャリー・ネイション・ウイスキー」まで作られ大売れに売れる。何のことはない、ブルドッグ様、酒の宣伝に手を貸したようなもの。
 煮えたぎる熱情の彼女、その熱に耐えかねたのか、1911年、禁酒演説ぶちあげ中、ぶっ倒れ、あっさりご臨終。おん年、65歳。墓碑銘にこう刻まれた。「禁酒法を制定させた篤信者。彼女は自らの為し得ることを為した」。そのとおり、死後8年にして有名な「禁酒法」が成立する。

★ 「禁酒法」の壮大な失敗 

 キャリー・ネイション悲願の「禁酒法」、これができれば世の飲んべえはいなくなり家庭の悲劇も、暴力もこの世からなくなるはずでした。キャリーは本気でそう信じていました。禁酒運動の「清らか」な人々もそうでしょう。けれど結果はご承知のとおり、希代の悪法として成立からわずか13年で廃止されます。
 禁酒法で増えたもの、酒場とアル中とギャングでした。酒場は2倍以上に増えました。もちろん表向き違法ですからすべてモグリです。一片の法律でそれこそ聖書にもいくつも記載のある由緒正しい飲酒がなくなるはずありません。飲みたいものはどんな手段でも飲みに走りそれにつけ込みヤミ酒場が乱立、しかも規制がないもので毒酒ともいうべき酒が出回りアル中と失明者が激増しました。アル中死者は何と禁酒法期間中6倍も増えています。役人の腐敗も横行しました。安月給の取締官はワイロをもらいヤミ業者とつるんだのです。そこに目をつけたのがアル・カポネなどのマフィア、ヤミ酒をどんどん造り闇ルートで流し大もうけします。禁酒法時代にマフィアは飛躍的に力をつけています。
 キャリーさん、あなたがアルコールを徹底的に憎み、撲滅したいという気持ちは少しも疑いません。あなたの父も最初の夫も悲惨なアルコール依存症で亡くなったのですよね。そのたびにどれほど心に傷を負ったか分かる気がします。だがなぜ人間は酒を飲むのか、なぜ身を持ち崩してまで酔いを求めるのか、ようく考えたことがあったでしょうか。あなたの時代学問もなく、工場や農村で一日重労働に疲れた男たちには酒を飲むしか疲れをいやす方法はなかったのです。安酒に頭をしびれさすときだけ、この世の苦しみを忘れることができたのです。
 人間はあなたほどには強くはありません。あなたほどに何ものかを信ずることもできません。弱く悲しいものです。あなたの神は人を裁くだけだったのですか。そんな神など弱い人間が信ずるはずはありません。人に寄り添い、たまには涙と共に酒を飲んでくれる神、神がいるとすればそんな神でなくて、人間にとって何の意味があるのでしょう。あなたが禁酒法の地獄を見る前に亡くなったのは本当に幸せでした。

2009.12.28 / Top↑

                          ノザンクロス

「渡はもう寝たね」
 パジャマの上にカーディガンをはおった健二が部屋のふすまに顔を向けた。 1269574551
「もう眠っているでしょう」
「じゃ行くか」
 健二が青いリボンのきれいな箱を取りだした。象やキリンの絵がかわいい。
「渡はまだサンタを信じてるかしら」、恵美が笑いながら尋ねた。恵美も勤めている。クリスマスイブの今日は特に早く帰ってきた。ささやかなツリーに電球をともし三人でケーキを食べた。リボンの箱には大きな「ショーボージドーシャ」が入っている。渡は車が大好きだ。
「まだ四つだ。信じてるだろう」、健二の顔はシャンペンで赤くなっている。
「あなたはいくつまで信じてたの」、恵美も湯上がりの顔にほんのり朱がさしていた。
「んー、もう覚えてないなー。五つか六つくらいじゃないかなー」
「やっぱし男の子がおくてね。女の子はもっと早いわよ」
「そりゃそうやろな。男はいつもアホな夢見てるもんや」
「女も夢は見るわよ」
「そりゃそうやろ。リアルな夢をね」
 
 渡は眠っていた。ふっくらとした頬が居間の光につややかに輝いている。
「かわいいなー」、健二が頬を指で押さえた。ぷくんと頬がはね返る。
「だめよ。起きだすわよ」
 大きな靴下を壁に下げているが箱を入れるのは無理だ。枕元に二人の手紙とともにそっと置いた。渡の唇がかすかに動いた。小さな歯がのぞき微笑んでいた。
「天使があやしているのよ」
 恵美が言った。
 
 濃い青のスクリーンがどこまでも広がっている。絹を染めたような深い青の幕が健二の眼前に重なっていた。圧倒される広がりだった。健二は打たれたように立ちつくしていた。
 スクリーンの一点がわずかに光った。光はみるみる輝度を増し、白熱光を幾筋も放射した。光が生まれていた。壮大な青のスクリーンに五つの輝点が生まれていた。最初の光を上に一直線に三つの光が並んでいる。真ん中の光から横に二つの光も生まれていた。十字架だ。スクリーンに巨大なクルスが生まれていた。最初に生まれた光は十字架のいただきにひときわ白く目を射った。十字架の底にはオレンジ色の光が鮮やかだった。すぐそばに海のように青くエメラルドの光が寄りそっている。あえかな青色がオレンジ色を慕うように並んでいた。
 健二はなつかしさに震えていた。ずっと前、光のクルスを見たことがある。濃い青にきらめく光の十字架。いつだったのか、どこだったのか、思い出せない。

 健二は目を覚ましていた。
 半身起きあがり、光の残像を思っていた。
「あなた、どうしたの」
 恵美も目を覚まし声をかけた。
「うん、不思議な夢を見た。青い背景に美しい光の十字架が浮かんでいるんだ。どこかで見た覚えがある。でも思い出せないんだ。切ないほどになつかしかった」
 恵美は薄く笑った。
「クリスマスににわかクリスチャン。できすぎだわ」
「そんなんじゃないが……」

 その夜、健二は年末の帳簿整理で遅くなった。もうひとふんばりだ。私鉄の駅から疲れた体を運んでいた。赤信号で止まった。ふと頭を上げた。
 空は濃い青に染まっていた。夜の底は町の灯りにほのかに光っていた。星が遠慮がちに瞬いている。ひときわ明るい星が空に凍えていた。その星に捕らわれたように健二は見上げていた。心にある光景がよみがえった。突然だった。切なくなつかしい一つの光景、ずっとずっと昔のものに思えた。
 健二は信号を渡らず、タクシーを止めた。
「那珂川町!」
 那珂川町の健二の実家に母が一人で住んでいる。七十を越えた。いつかは家に戻らなくてはと思っている。健気な母は丈夫なうちは一人でいいと気を使っていた。
「お母さん、親父の日記あったろう。今晩貸してください」
 突然の訪問に母は驚いた。
「ごめん。ごめん。突然で。親父の日記、急に読みたくなって。今度の休み、渡を連れゆっくり来るから」
 タクシーを飛ばし、遅い食事もとらず、部屋にこもった。
 九年前、死んだ親父が日記を残していたことは知っていた。いつかは読みたいと思っていたが、忙しさに紛れ忘れていた。読むことが怖くもあった。
 几帳面な親父の日記は若い頃から死ぬまで三十冊以上になる。健二が生まれた一九七二年からの四、五冊を借りてきた。
 親父は健二の生まれた喜びを素直につづっていた。健二は夢中になった。親父の愛をこれほど強く感じたことはなかった。
「あなた、何か食べないと。サンドイッチおいときますね。日記のことあとで聞かせてください」
 恵美も健二の異様な熱気にうたれ、コーヒーとサンドイッチをおくと部屋を出ていった。
 健二はクリスマスの頃の日記を拾い読みした。一九七六年、十二月二十四日、健二、四歳の時の日記である。目は文字に釘付けになった。かすかに手が震えていた。

「今日、健二とノザンクロスを見た。それは見事な北の十字架だった。
 白鳥座の大クロスはもちろん夏の星座である。だが不思議にクリスマスの時期、北西の空に大クロスがかかる年がある。私もこの時期幾度か見たことがあるが、今日のノザンクロスほど見事なものを見たのは初めてだ。
 町の灯りに突き刺すように光の十字架が立っていた。濃い青のスクリーンにかかる大クロス。十字の頭にひときわ白く輝くデネブ。六百年かけて地球に届いた光。私は驚嘆した。
 肩車した健二にノザンクロスを教えた。ギリシャ神話も話した。楽人オルフェウスが女神の怒りにふれ、川へ投げ込まれたが、白鳥となって空に登ったこと。今でもこと座を横にオルフェウスはたて琴を弾いていること。
 健二は目を輝かして聞いていた。『ノ、ノザン……クロス』、可愛い声で言うこともできた。
 健二、今からお前はどんな生涯を送るのか。お父さんに聞かせておくれ。悲しみや苦しみは避けることはできないだろう。
 だがこの世はやはり美しいのだ。生きていけるほどには。
 今日のノザンクロス、お前は覚えていてくれるだろうか。私はクリスチャンでも何でもないが北の十字架に心から祈った。
 健二、わたしが望むことはただひとつ、生まれたことを喜ぶ人生を。そして私の子に生まれてきたことを喜んでくれたなら、私にこれほどの喜びはない。
 メリークリスマス!」

 健二はぽろぽろと涙を流していた。
「渡! 渡!」
 渡の部屋を開けた。
 抱き上げ、ベランダに出た。
「あなたっ、渡、寝てるでしょ」、恵美が叫んだ。
「いいんだ! いいんだ。今日はいいんだ。着せるものを」
 九階のマンションのベランダ。
 北西の空にクロスがかかっていた。夢に見た、そして二十八年前、父に肩車され見た北の十字架。
 濃い青のスクリーンに五つの星が壮大な光の十字架を創っていた。六百光年先のデネブを頭に宇宙に輝く大十字架。
 健二は渡の頬をぷくんと押した。渡が目を覚ました。健二を不思議そうに見た。健二が十字架を指さした。指の先の空を渡も見上げた。不思議にぐずらない。
「渡。渡。ようく見ておけ。見事なノザンクロスだ。そしていつの日か、一度でいいから今日の日のことを思いだしておくれ」
 渡を強く抱いた。
 健二は祈った。なにものかに一心に祈った。

 メリークリスマス!

2009.12.19 / Top↑

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