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ansyan★ 当時の割と有名な書籍があります。イギリスの農学者、アーサーヤングが書いた「フランス旅行記」というもので革命直前のフランス農村を鋭く分析しています。そこに60か70に見える「老婆」が実際は28歳であると聞いて驚いたことが書かれています。それほど当時の農村の労働は過酷でした。日本でも農村の「老婆」は腰がエビのように曲がっているのが当然であったのはそう昔のことではありません。体が変形するほどの労働、すさまじいものです。フランスの農村では大半が40前に死んでいました。
 当時は大きく3つの身分に分かれていました。有名なアンシャン・レジームです。第一身分は僧侶階級で約14万人、第二身分が貴族階級で約40万人、第三身分が商工業者、農民で約2450万人と国民のほとんどを占めています。内農民は約2000万と圧倒的です。第一身分、第二身分併せて国民の1.5%にしかすぎませんが、国土の40%を占めていました。この特権階級は選挙権があり、当然豊かですが驚くことに納税の義務はありません。第三身分は政治に参加する機会は全くなく、命を保つのがやっとなのに厳しい税を取り立てられました。ロシア革命時も似たようなものですが、封建制度の世界の構図は恐ろしいほど酷似しています。一時に燃え上がり封建制度を焼き尽くしたフランス革命を理解する大前提だと思っています。
 画像はそれを風刺した当時の絵です。農民が神と同一視された王をすべて支えています。僧侶と貴族は横から軽く手を添えるだけ、いや実際は支えるように見せて農民を一緒に押さえているのでしょう。鋭く現実を風刺しています。フランス革命には確かに行き過ぎもありました。革命のエネルギーとなったのは第三身分の激しい情念です。そこに実際には自由・平等・博愛の美しい理念はなかったでしょう。ただ虐げられた怨念と特権階級への恨み、それだけだったと思います。またそれほどの情念があったから、ヨーロッパ中が潰しにかかった革命を何とか持ちこたえさせたと思っています。今回はロベスピエールの予定でしたが、やはり断片的なエピソードでは何も語れないと思い、ちょっとお堅い、おもしろくもない、歴史的背景や理屈面について書きます。当分はフランス革命にのめり込みます。ますます泥沼にはまる予感もありますが(^_^;)。所詮自己満足、楽しみながら好きに行きます。
 記事中の事項、人名等はウィキペディアでかなり詳しく説明されています。

★ 狂気の1年 すべて俺がかぶる 

 読者の方から王家がフランス国民を許したかと同じように、国民が王家を許したかと言うことを聞いてみたいとの感想をいただきましたが、これは本当に考えさせられました。
 確かにそうですね。わたしも政治的に最も巧妙なやり方は、王家は国から逃亡しようとしたのですから、「それならどうぞ」と逆にのしをつけてオーストリアかどこかにお返しする、それがよかったのではとも思います。戦争の口実がなくなりますから。少なくともマリー・アントワネットは実家に返す。当初はそう考えていた節もあります。いわば人質です。しかし戦争の激化とともにその余地はなくなります。当時、集団で頭に血が上っていた国民はけしてそれは許さなかったし、外国も本気で王家を助けることが目的でなく、あくまで革命伝播の予防戦争ですから。外国も王を助けるだけならどのよう交渉もあったはずです。外国の干渉はかえって外国にはまずい結果をもたらします。もともとプライドの高いフランス人、諸国の圧力が高まれば高まるほど反発していきます。また、王が外国にいればたやすくそこに王党派が結集し、フランスに攻め入るかもしれない、その恐怖もあったでしょう。
 そう、恐怖でした。ヨーロッパ中の国(オーストリア・プロイセン・イギリス・オランダ・スペイン・ベルギーなど)が革命政権を潰そうとしている、当時はギリギリの恐怖が国民を支配していました。実際オーストリア、プロイセンはフランスに侵入しヴェルダンなどいくつかの都市が占領されています。両国は貴族とその郎党からなる専門の常備軍、当然フランスは敗北すると予想されましたが、何とフランスのド百姓軍が両国軍を蹴散らしました(ヴァルミーの戦い)。これはフランス国民の士気を最高に高めました。プロイセン側にいたゲーテが「ここから、そしてこの日から世界の歴史の新しい時代が始まる と詩人の直感で正しく事態を評価していたのは有名な話です。フランス革命は軍制にも大きな変革をもたらしたのです。以後西欧は国民から徴兵、あるいは志願兵からなる国民軍が貴族からなる常備軍に変わっていきます。のちの話ですがナポレオン軍がなぜあれほど強力であったか、その秘密は国民軍の士気の高さにあります。
 ヴァルミーの戦いはルイ16世が処刑される4ヶ月ほど前です。当時は革命時であり厳しい戦時、非常事態でした。また外国だけでなく王党派の
800px-Jacques_Bertaux_-_Prise_du_palais_des_Tuileries_-_1793_生き残り、貴族や地主による反乱(リヨンの反乱・ヴァンデの反乱など)も頻発しました。自らの生存を脅かされる階級が死にものぐるいで反撃するのも当然のことですが。外国との戦いよりむしろ内戦による人的・物的被害が大きかったのは事実であり、残虐行為が双方に頻発し何十万もの命が失われました。外国軍の干渉も当然続いています。
 しかし革命に目覚めたフランス国民はけして屈服しませんでした。革命はますます先鋭化、過激なものになっていきます。屈服したら皆殺し、彼らも必死です。こうしてロベスピエールをはじめとするジャコバン派が台頭します。フランス革命はロベスピエールなどのジャコバン派が終始リードしたとのイメージが強いですが、けしてそうではありません。恐怖政治の元凶として恐れられた公安委員会でロベスピエールが委員になったのはルイ16世処刑後の7月です。彼が権力をふるったのは革命後期のわずか1年です。直ちに国民皆兵令をしき非常事態宣言を発しました。これも当時としては考えられないこと、貴族がいつ銃を自分に向けるかわからないド百姓に武器を渡すはずはありません。ロベスピエールは国民を信じていました。国民は競って入隊し諸外国に備えました。いわばジャ
Robespierreコバン派も国民に押されて過激な政策をとった面が強いのです。確かに公安委員会はすさまじい恐怖政治をしきました。マリー・アントワネットが処刑されたのは明らかに公安委員会の責任です。しかし戦争中の内通行為はスパイとして女王でなくても厳しく処断されます。マリーのスパイの証拠はいくつも上がっています。突飛な余談ですが篤姫が、千姫が実家が攻めてくるのに少しでも実家に味方したでしょうか。女の一本道の覚悟が違うわい(^_^;)。
 また当時の極左派、右派、貴族残党、僧侶など次々にギロチンにかけられます。しかしその権力もわずか1年で崩壊します。次は自分かと恐怖したジャコバン派、粛正したジロンド派などによりロベスピエールは捕縛され直ちにギロチンにかけられます(テルミドールの反動)。次回、書きますがロベスピエールも信じられない人格です。当初彼は、当時としては奇蹟としか思えない死刑廃止論者であったことがその人格を物語っています。清廉潔白、明晰果断でまさに生きた革命理念でした。死刑廃止論者だった彼が世界史に大殺戮者として名を残している、本当に歴史の皮肉を感じます。彼を支持する民衆は未だ根強く反撃のチャンスもあったのですが、彼は最後驚くほど消極的になっています。対外戦争も内戦もひとまず終了した時期でした。わが使命終われりと思ったのでしょうか、狂おしい情念を理念で導こうとしたことに深く絶望したのでしょうか。一身に汚名をかぶり革命理念を道連れに滅んでいった、そうとしか思えません。まだ彼の理想が実現できる時代ではないことを彼自身が証明しています。
 テルミドールの反動で狭義のフランス革命は終焉した言われます。この後の歴史はおおざっぱに言えば、反動期を迎えながらも革命の鬼っ子、ナポレオンが台頭し、ヨーロッパをほとんど支配します。しかしナポレオンの死後、王政復古がありルイ18世ルイ16世の弟)が不死鳥のようによみがえります(1814年)。王さんは実にしぶといです。ただこの王もナポレオンには頭が上がらず、死後、その弟がシャルル10世として即位しますが、極端な反動政治でフランス国民は再び革命を起こし、王をイギリスに追放、ここにフランス・ブルボン王朝の王は途絶えます(1830年革命)。
 その後も共和制、王政とめまぐるしく変化したのはご承知の通りです。王政復古期のかっての革命派に対する弾圧は過酷でした。ルイ16世処刑に賛成した議員はしらみつぶしに捜査され処刑や追放の憂き目にあっています。彼らはけして水に流すと言うことはありません。歴史は螺旋のように時に進み時に停滞することを痛感します。しかし現代、今なおフランスは革命を尊重し国歌も建国記念日(パリ祭)も変えていません。自由・平等・博愛の理念が本当に実現されるのはまだ何百年もかかるでしょうけれど。

★ 歴史の問い 暴力しかなかったのか

 最初の読者の方の問いに戻ります。もちろん、私見ですが。
 上記のような非常時、恐怖に支配された国民が冷静に事態を見ることをできなかったのは間違いないでしょう。いわば集団ヒステリー状態です。逆に言えばそれほどの狂気がなければ革命など起こらないとも言えると思います。もちろん何百年もあとの無責任な極東のおやじの一感想ですけれど、それでもなお許すことはできなかったかとは問えると思います。はっきりしているのはルイ17世の処遇は明らかに汚点だと思います。怜悧に政治的に考えれば、もっと巧妙に再教育してむしろ革命派のシンボルとして活用する方法もあったかもしれません。ただただ戦争の恐怖と一時に爆発したエネルギーのせいとしか言えませんが、わたしもルイ17世には全く罪はないと思います。どのような立場に身を置くかでこの革命の評価はがらりと変わりますが、ルイ17世の処遇には論議の余地はないと思っています。
 フランス革命は後の革命に大きな影響を与えています。ロシア革命、中国革命などフランス革命に似た軌跡をたどり驚きます。革命派の分裂、粛清、恐怖政治、外国の干渉戦争、内戦、王の処刑などなど、これらは基本的に暴力から出発した革命だから似ているのでしょうか。かって記事にしたガンジーの考えとは正反対です。彼が言った「暴力は暴力を呼ぶ」、これは20世紀、何度も証明されました。では1789年のフランスにほかの方法があったのか、そう自らに問うても、無責任ですがわかりません。ただあのままアンシャン・レジームが存在した方がよかった、そのような論は絶対にとりません。28歳の娘が60や70の老婆に見え、一生を辛苦と悲痛に終えるような無惨な政治、彼女らは人間ではなく単に税を納め特権階級を支える鶏でありロバでしかありませんでした。代わりはいくらでもいます。はっきり言えば革命は一人の女王と2000万のド百姓の生存をかけた戦いだったのです。
 「人はすべて生まれながらにして平等な人権を持つ」、高らかにうたった革命の「人権宣言」、彼女たちは字も読めず、難しい言葉もわかりませんでしたがその意味を知ったとき涙を流して喜びました
「女王とわたしが同じ人間!」、この意識を人間が普通に持つようになったのが革命の最大の成果だと思っています。

「革命は、客をごちそうに招くことでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺繍したりすることでもない…革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうちたおす激烈な行動である」
                     毛沢東
 お前は暴力主義者かとのありがたいご指摘があるかもしれませんが、わたしは社会の変革や歴史を調べるのが楽しいだけ、いたって気弱な、ただの物好き、かってこのように主張し、革命を成功させた男がいたと言うだけの話です。
2010.04.21 / Top↑
★ フランス革命の概観はけっこう知られていると思います。あの国民的大ミュージカル「ヴェルサイユのBAKA、あ、BARA」の大ヒットですっかりおなじみです。間違えてもロシア革命が少女漫画やミュージカルになることはないでしょう。豪華絢爛、おフランス貴族の恋と戦いのタペストリーです。実際にも、華麗、卑劣、勇敢、臆病、栄光、悲惨、あらゆる人間模様が革命期に展開されました。オスカル様は出てきませんが、以下自由にわたしの興味を引く人物から記事にしていきます。評価はもちろんわたしの独断ですが、史実はできるだけ通説に従います。人物を書く中で革命史にふれ、シリーズの終わる頃はフランス革命通に。まあ、何の役にもたちませんが。
 それにしても200年以上も前に「自由 平等 博愛」の理念を高々と掲げたのはやはりすごいと思います。まだ現代はそれを実現できずにいますが、近代の間違いなくスタートラインだったと思っています。

★ 悲運の女王 マリー・アントワネット

420px-Marie_Antoinette_Young3 やはり彼女からだろうか。不思議に日本では人気がある。何より断頭台で生を終えた悲劇性が不運な女王を際だたせている。彼女はオーストリア王室からルイ16世に輿入れした。まさに運命の結婚だった。フランス人でない彼女がフランス革命を呼び起こしたとも言える。ルイ16世は結構国民に人気があった。革命は1789年7月の有名なバスティーユ監獄の襲撃から始まるが、けしてすぐに国王一家が処刑されたわけではない。いぜん王であり続けていたが、10月ヴェルサイユ行進が起きる。
 まあ、フランスの女性のたくましいこと、凶作や政情不安で高騰した物価に怒った主婦を中心とする7000名ほどがパリから20キロほどのヴェルサイユに押しかけた。
バスティーユ襲撃が重大な政治的意味を持つこともわからず国王一家は相変わらず贅沢な暮らしにふけっていた。特に主婦層のマリー・アントワネットに対する憎悪、ねたみは強烈だった。外国人のくせに贅沢にふけり国庫を乏しくし政治的に何の有効打も打たない。大砲まで持ち出し押しかけ、国王一家をパリに連れて帰る。もうそれを体を張って阻止する軍隊もいなかったのだろう。人類の近代史は主婦の恨みに始まる。
 パリの宮殿に市民の監視下におかれた国王一家、ルイ16世は比較的国民にも譲歩していたのでそのままおとなしくしていれば、以後の革命はなかったかもしれない。まだ国王は存在していた。しかし国王一家は致命的な誤りを犯した。夜逃げである。王はどんなことがあっても国を捨ててはならない。
 屈辱的な生活に耐えられなかったのだろう、1791年6月、マリーの実家オーストリアへの逃亡を企てる。主導したのはマリーと思われる。この頃はすでに多数の王族、貴族が外国に亡命していた。マリーが寵愛した女官たちもほとんどが逃げ去っていた。しかしここに文字通り騎士道を発揮した貴族がいた。ベルばらでも重要な人物のようでご存じの方は多いと思いますが、スエーデン貴族フェルセンである。マリーとは相思相愛だったと言われる。このようにルイ16世は妻からも軽んじられていた。結婚初期は不能であり手術により子供をようやく作った。錠前造りが趣味の気のいい王だった。ただあの時代に王だったのが不運としか言いようがない。フェルセンは全財産を傾け国王一家救出に奔走する。マリーも彼にすべてをかけた。だがまた愚かな所行で身を滅ぼす。
 国王一家は変装して馬車で国境近くまで逃げ出す。しかしその馬車にはマリーの強い希望で財宝や衣装が満載されていた。ワインまで積んでいる。当然きわめて遅くなり、途中警護するはずの軍人もあきらめて任務を捨てていた。国境近くの町でも派手に振る舞いついに国王一家であることを見破られ、全員補足されパリに連れ戻される。フェルセンも後にスエーデンに帰り怒りの民衆に惨殺されている。逃げの一手が多かった貴族の中で数少ない”男”だった。
 
462PX-~1国民は激怒した。一応国王として立てていたのを裏切り、国と国民を捨て逃げだそうとしていたのだ。しかしこれでもなお王としては存続した。諸外国の王は革命の自国への伝播に恐怖していた。時の神聖ローマ帝国(オーストリア)皇帝はマリーアントワネットの兄だった。フランスに侵入すると脅し、フランス国民は極度に緊張した。この間にマリーがオーストリアと連絡を取りフランス侵入を手引きしていることも発覚した。国王一家は風前の灯だった。
 1792年、諸外国の脅威にフランス国民はかえって団結し、現国歌、「ラ・マルセイエーズ」が一将校により作詞作曲され、国民の士気はいよいよ高まった。外国と内通している国王一家への憎悪も高まり、8月、ついにパリの宮殿は民衆に襲撃され、一家はテンプル塔に幽閉される。そして9月、ようやく王政が廃止され、フランスは共和国となる。翌年1月、ルイ16世は断頭台へ送られた。これも議会の正式決定によるものでこの時点でも国王処刑はきわどい差で決定されている。だがマリーは処刑されなかった。
 フランスは対外戦争の真っ最中であった。ほとんどのヨーロッパ諸国を敵に回し戦った。この時点で革命が挫折しなかったのは奇蹟と思われる。国民はアンシャン・レジームの旧体制で呻吟したのを忘れていなかった。革命は国民に新たな愛国意識を生まれさせ、果敢に諸国と戦い革命を防衛した。
 1793年10月、ついにマリー・アントワネットも処刑される。バスティーユから4年がたち、37歳になっていた。テンプル塔幽閉時は恐怖のため髪も真っ白になっていたが、最後には落ち着いて遺書も残している。「不幸になって初めて、人は本当の自分が何者であるかを知るものです」との言葉は痛ましい。国民の憎悪はそれでもすさまじかった。首が民衆に示され「共和国 万歳!」の叫びが空にこだました。
 遺書のように、彼女は最後、自分が何者かを悟ったであろう。王族で最後までマリーに従ったのはルイ16世の妹、エリザベート王女だけであり彼女も処刑されている。宮廷の貴族ではランバル公妃マリー・ルイーズだけが最後まで彼女に忠節を尽くし、彼女も惨殺され首をマリーに見せつけられるという辱めを受けている。ほかの女官はすべてマリーを見捨て逃亡した。
 いっそうの悲劇はマリーの子である。ルイ17世となるべき男の子、ルイ・シャルルは両親の処刑後も一人テンプル塔に幽閉され、虐待されわずか10歳で衰弱死した。マリーアントワネットの裁判時、この息子との相姦を疑われた。これは全くの濡れ衣であり、革命をかえって冒涜する暴論である。

★ 最後、国民を許したか 女王の意味 

 処刑時、マリーアントワネットは女王の威厳を取り戻し、毅然としてギロチンに望んだと言われている。残されている最後の言葉、誤って死刑執行人の靴を踏み「ごめんなさい、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」にはただの女に戻った彼女の真情が感じられる。王族に生まれなければ、いや王族でもフランスに嫁入りしなければかわいい王女として贅沢に、幸せに一生を送ったであろう。彼女の必死の反撃も王族としては当然だったと思える。
 しかしこれが彼女の歴史上与えられた宿命だった。彼女でなければ誰かが代わりに処刑されていた。あの時点では民衆は生け贄を要求していた。それが良くも悪くも外国から国を守る士気を高めた。マリーがフランスを少しでも愛する気持ちがあったのなら、最後は国民を許した、そう思いたい。ルイ16世ははっきりと「国民を許す」と述べている。国民の心が最後に理解できたのだろう。さすがフランス国王と思いたい。
 わたしはフランス革命はやはり人類の大きな転換点だったと考える。近代の人権思想、平等思想、自由思想はそこに淵源を持つ。もちろん、理念だけでそれが実現するはずはなく未だに途上にあるが、行く手を照らす理念だけははっきりしている。フランス国民が辛抱強く処刑を延ばし何年も待ったことにかえって驚く。けして当初からの暴虐な革命ではなかった。そして次回記載のロベスピエールはこの時点では全く無名である。革命の若き獅子、ただ革命のためにのみ生き、死んでいったロベスピエール、血に飢えた殺人鬼と言われることが多いが王族の処刑にはまったく関与していなかった。
 パリ祭、日本では優雅なおフランス祭りととらえられがちだが、ご承知のようにバスティーユ襲撃を記念した7月14日であり、今なおフランスの一番の祝日である。ラ・マルセイエーズの歌詞もその過激さに驚くが、フランス人の敬愛する国歌である。このような祝日、国歌を持つフランスをわたしは心から尊敬する。

マリー・アントワネット 上 (角川文庫)
マリー・アントワネット 上 (角川文庫)
2010.04.19 / Top↑

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